
●中学生の頃の夏休みに読書感想文を書けという課題が出て、学校側が選んだ書籍の中に吉田洋一氏著の「零の発見」(岩波新書)というのがあった。その時は別の本を選んでしまったので読まなかったが、書籍の紹介文に「ゼロは古代のインド人が発見した」というようなことが書いてあったのが何となく頭に残った。それにしてもゼロとは「無」のことだから、無いものをどうやって発見したのだろう、という単純な疑問に始まり、理数的に頭脳明晰なインド人であるし、恐らく深遠な哲学が書かれた本なのだろう、と勝手な想像をしていた。最近になってこの本を読んでみたら、深遠な哲学ということではなく、0を用いることによる「位取り記数法」を考え出したのが古代のインド人であるというのが書き出しの内容だった。つまり、現在われわれがアラビア数字と呼んでいる数字も起源はインドであり、それが8世紀頃にアラビア地域へ伝わった。そして、0を用いた「位取り記数法」によってアラビア地域では代数学がすさまじく発達し、やがてそれがヨーロッパ中に伝播していった由。●同書の中に、ナポレオンのロシア遠征の際に、ポンスレというフランスの数学者が従軍し、帰国の際にロシアのソロバンを持ち帰ったところ、ロシアは未開だからいまだにこんな物を使っていると、これを見たフランス人達が嘲笑したというくだりがある。ソロバンは中世まではヨーロッパでも普及していたが、アラビアで発達した代数学が伝わるにつれ、筆算が中心となってすたれてしまったらしい。逆に中国を中心とする東アジア地域ではソロバンが進化し、これはどちらが優れているということではなく考え方の違いであって、江戸時代までは日本もアラビア数字は用いられず、もっぱら漢数字のみで数字を表現していた。インド・アラビア式の「位取り記数法」では、0が重要な役割を持つが、ソロバンの場合は珠を動かさない、つまり「何もしない」ことが0を表すことになるので、日本ではゼロは発見されなかった、というか発見する必要がなかった。だから日本古来の言語(やまとことば)にもゼロという意味の単語は存在しない。そのせいか、日本の一般社会ではいまだに「ゼロ」に対する認識が浅いというか、前述の「0系新幹線」のごとく「ゼロ」の扱い方がぞんざいであるように思われる。ただこれは批判しているわけではなく、あまり物事を深く考えないのもまた日本人の長所なり。●では、0とは何か、というとこれは相当に厄介な問題であって、「無」とは何を意味するか、ということになるともっと厄介で禅問答じみてくるので、詳述は避けたい。ただこれは全く私の個人的想像だが、「ゼロ」には2つの意味があって、最初から何も無い、という0と、無限に0に近いという0と。後者の実例としては、大きさが限りなく0に近く、密度は無限に大きいブラックホールの特異点が思い浮かぶ。仮に地球くらいの質量を持つ天体が、半径1cmまで縮んだ時、その強力な重力によって光すら脱出できなくなる。ブラックホールについては、すでに「はくちょう座X-1」がその有力候補とされ、宇宙に実在することはほぼ間違いないのだが、そうだとするとこの世のあらゆる物質を構成している素粒子はどういうことになるかという疑問が出てくる。素粒子は一定の質量を持つにもかかわらず体積がゼロの点だとすれば、ブラックホールの特異点と同じ計算式が成り立ってしまい、すなわちわれわれの肉体も無数のブラックホールで満たされていることになってしまう。こりゃ大変だわ。 |

●ところで小学生低学年の頃から2×3や6÷2は簡単に理解できても、3×0=0といわれたあたりでちょっと「おや?」と思い3÷0は「やってはいけない」といわれると「はあ?」となった経験はどなたにでもあるに違いない。「やってはいけない」とはまた随分と高飛車な、と感じたが、正確に言うと「未定義である」。「0で割る」ということは、つまり最初から「割り算はしない」と宣言しているので、元の設問自体に意味がなくなる。「じゃ、勝手にすれば」ということで、「やっても意味がない」。100人の乗客を2両編成の電車で運ぶなら1両あたり50人、単行なら100人が乗り込むことになるが、「皆さんを電車で運ぶつもりはない」と言われてしまったら、そもそも「電車で運ぶ」という前提自体に意味がない。(それでも来るはずのない電車を駅でずっと待ち続ける人もいるかもしれない。まあそれは文学の世界の話)だが笑いごとですまされないこともある。「ゼロ除算」は大変なトラブルを惹き起す場合もあるようで、1996年にアメリカ海軍のミサイル巡洋艦ヨークタウンは、制御系のコンピューターが突然ゼロ除算を始めたためにシステムダウンし、2時間半にわたって航行不能になるという事件が起こった(ゼロ除算が原因ではないという説もある)。実際にこういう事件があると、ゼロ除算がもとで世界中のコンピューターが暴走して核戦争が始まり、人類は滅亡するというSF物語もあながち荒唐無稽ではないような気もしてくる。●3÷0=無限 という答えもどこかで教えられたような気もするが、これは「無限」の意味が誤解されてしまうので誤りである。ただ0に限りなく近い無限小の数字で割れば、解は無限大にはなる。では「無限」とは何か、というとゼロと同様に理解が難しい。こういう話がある。客室が無限にあるホテルがあって、無限人の宿泊客で満室になっていた。そこへ新たに1人の宿泊希望者が現れた。どうすればよいか? 答えは案外簡単で、1号室の宿泊客に2号室へ移ってもらい、2号室の客を3号室に、という具合に無限に移動してもらえば空いた1号室にその客を泊めることができる。では新たに無限人の宿泊希望者が現れたら? その場合は1号室の客を2号室へ、2号室の客を4号室へ、3号室の客を6号室へ、という具合に移ってもらえば、奇数号室は無限に空室となるので、新たな無限人の宿泊希望者はそこへ入ればいい【ヒルベルトの無限ホテル】。「いやいや、だって最初から満室だって言ってたじゃん。満室は満室でしょ」と文句を言っても、それは言葉のアヤであって、数学的にはこの話は正しい。つまり無限とは、無限大に発散する数列のことであって、文字通りある一定の数字であるとは解釈できない。だから∞+1は∞であり、∞−1や∞+∞も∞となる。ちなみに∞×0や、∞−∞は「やっても意味がない」。●「無限」という概念は理解するのが難しいだけでなく、昔は数学の世界では非常に厄介な存在だとされてきた。19世紀中頃に世界中の大数学者達が無限の問題に取り組み始めたことによって、逆に大混乱が生じ、当時の数学界は存続の危機すら叫ばれた時代もあった。ドイツ数学界の大御所クロネッカーは、この混乱を嫌って無限という概念を数学から排除しようとさえした。彼は「神は自然数を創造した。それ以外の数は全て人間が偽造したものだ」という有名な言葉を残し、古代ギリシア時代から無理数(分子・分母ともに整数である分数として表すことのできない実数、つまり繰り返しのない無限小数で表わされる数)として認知されている円周率πの超越性(代数方程式の解にならない数)が同じドイツの数学者リンデマンによって証明されたという知らせを聞いた際も、「もともと円周率πなどという数字は存在しない」と言い放った。私は好きだな、こういう人。●無限とか言ったって、所詮数学や物理学の世界の話であって、実生活にはほとんど関係ないでしょ、と割り切ることも可能だが、無限という現象は案外われわれの身近なところにいくらでも存在する。まず円形とは「正無限角形」のことを指す。また無限を視覚的に、手っ取り早く体験する方法は、三面鏡を合わせ鏡にすれば自分の姿が無限に映し出される(夜中はやめてね)。自分が手を振ると鏡の中の無限人の自分も一斉に手を振っているのが不気味である。誰か一人手を振らないのがいたらもっと不気味である。汝が深淵を見つめる時、深淵もまた汝を見つめるのである【ニーチェだったかな?】 |

●車番が「0」という鉄道車両はあってはならないし、私はそういう車両を知らない。ただし形式・番号がない車両なら、昔、兵庫県の別府鉄道に存在した。もちろんちゃんと車輪がついていてレールの上を走行可能であるにもかかわらず、鉄道車両として登録されていないという車両(設備・機械として扱われる)なら今もごまんと存在する。そうじゃなくて乗客を運ぶ営業用車として稼動していながら、形式・番号がない「おいおい」と言いたくなる例が、別府鉄道の「無番車」であった。もちろん「無番車」という名称なのではなく、形式・番号がないので、人々は仕方なく「無番車」と呼んでいた。別府は大分県の別府温泉とは異なり「べふ」と読む。別府鉄道は、地元で産出される肥料製品を山陽本線の土山駅と高砂線の野口駅に搬出する目的で1921年(大正10年)別府軽便鉄道として開通した。軽便鉄道という呼称は1910年(明治43年)に交付された軽便鉄道法に準拠したためつけられたもので、軌間は国鉄と同じ1,067mmである。客車の大部分は国鉄と三岐鉄道から寄せ集められた古典的な2軸客車だったが、その中に「無番車」が混じっていた。●「無番車」は製造時期・メーカーとも不明、主要要目(スペック)もなく、車歴簿の記録すら残っていない謎の客車である。別府鉄道では、1896年(明治29年)に九州鉄道の1・2等合造車として誕生したヘト32が国有化後に車掌車ヨ391となっていたものを1951年(昭和26年)に払下げを受けてハフ3としているが、この際に国鉄から一緒に譲渡されたものだといわれている。不要車一括処分ということか。ハフ3と同様、軸距や担いバネのスパンが結構長いので、もともと客車として設計されたものと推測する。ただ両端デッキ式ではなく中央に大きな両開扉が設置されていることから、荷物車だったとも考えられるが、それにしては側面窓の数がやたら多いのも気になる。外観上も謎だらけの興味深い客車。更にこの「無番車」は、ある時期、車体側面に「ハ5」と表記されていたという話もあるが(そういう写真があるという。私は見ていない)、どういう事情によるものか、また消されてしまった。●ただ、ここで少し視点を変えて考えてみると、「別府鉄道に無番車という車両が存在したことを証明できるか」というと、これはちょっと難しいかもしれない。無番車があったという話があり、下掲のごとく写真も残っているが、車歴簿がない以上、たとえ鉄道雑誌にそう書いてあったといっても、無番車が確かに存在したという証明にはならない。「無」を証明するのは困難、もしくは不可能に近いのである。俗な例を挙げれば、有罪であることを証明することはできても、無罪であることを証明するのは非常に難しい。だからある被疑者を有罪にするためには、たとえ誰が見ても99%有罪であろうと思われる状況であったとしても、告訴した側が有罪であることを立証しなければならないという刑法の考え方は正しい。夫婦喧嘩の常套文句「浮気してないなら、してないって証拠見せてよ」と言われても、それは無理。「アリバイ」は「現場不在証明」と邦訳されるが、これは正確ではない。現場に存在しなかったことを証明するのは不可能に近く(悪魔の証明とも呼ばれる)、同時刻に他所に存在したことを証明することによって、人間は同時に2箇所には存在できないので(余談だが、鉄道車両では同じ車両が同時に2箇所に存在することがあり、「2車現存車両」と呼んだ。これについては後述する)、間接的に現場には存在しなかったと帰結するのだから、「他所存在証明」と呼んだ方がしっくりする。私が島秀雄氏の言葉の中で、最も感銘を受けたもの。「技術者は安易に『できない』と言うべきではない。できないということを証明するためには、ありとあらゆる『できる』という仮説を否定する証明を行わなければならない。これは大変なことだ。それよりも『こういう条件が揃えばできる』と言った方が簡単だし、現実的ではないか」●もっとも別府鉄道の無番車は、当時の鉄道ファンの間ではかなり有名で、だから「無番車」といえば別府鉄道のこの車両を意味するようになっていた。ということは、形式・番号が無い車両が唯一無二であれば、「無い」ということが意味を持つようになる。「無い」という事実が「有る」じゃないか、という子供向けの屁理屈のような話が、この車両については通用する。「無い」といっても「無」という漢字はあるし、「無い」ことを意味する0という数字も存在する。一種の自己言及のパラドックスである。 |

●自己言及のパラドックスについては、1902年にイギリスの論理学者ラッセルが、後に「ラッセルのパラドックス」と呼ばれるものを発表した。これは「自分自身を要素として含まない集合の全体をXとした場合、X自身はXに含まれるか」というもので、ラッセル自身がわかりやすく説明した例として「村にたった一人の理髪師がいて、自分自身の髭を剃らない村民全員の髭を剃るとする。この理髪師は自分の髭を剃るべきかどうか」という有名な「理髪師のパラドックス」を挙げて、論理学や数学の世界に衝撃を与えたのである。つまり理髪師以外の村民に対しては何の矛盾もなく髭が剃れるのだが、理髪師も「自分自身の髭を剃らない村民」という集合に含めれるため、矛盾が生じてしまう。自分自身が矛盾を発生させてしまう。「そもそも日本人は・・・」という日本人論や日本人批判は、外国人が口にするのは問題ないが、日本人が言う場合は、自分自身もその日本人であることをよく自覚しておかないと矛盾が生じる恐れがある。自己言及のパラドックスとしては、「漢字使用禁止」と書かれたポスター、めまぐるしく動くため前方視界の妨げになるワイパー、「無駄な会議をなくすためにはどうすればよいか」ということについて延々と議論が続く会議(笑ってはいけない、官公庁や大企業ではこういう類のことが実際に行われている)、出力不足をカバーするためにより大型のエンジンを搭載したら、エンジン自身の重量増に耐え切れず、更に大型のエンジンが必要となった試作飛行機、等いくらでも話は思い浮かぶ。●自己言及のパラドックスそのものについては、古代ギリシア時代にソクラテスが「自分が知っていることは、自分が何も知らないということである」つまり「自分が愚かだということを理解した人が真の賢者である」と語っていた頃から人々には認知されていたと思われるが、20世紀初頭になって、このパラドックスの考え方が論理学や数学に応用されるようになり、遂には、「数学が無矛盾である限り、数学は自らの無矛盾性については永久に証明できない」ということを証明してしまうのである。数学の世界の話を実生活に置き換えることは、ちょっと誤ると危険でもあるので慎重でなければならないと思うが、例えば健全な精神の持ち主は「健全」の意味はわからないし、自分が健全だということを他人に証明することもできない。一度「不健全」になってみて始めて健全の意味を理解するのである。だから健全な人は不健全な人を救うことはできない。絶対にできない。よく「私は細かいことは気にしないタイプだから」と言って自分が神経質でないことをアピールする人がいるが、本当に細かいことを気にしない人は、「自分は細かいことは気にしないタイプ」だということにすら気づいていないものだ。●自分自身が存在することで矛盾が生じてしまう、という現象は日常生活の中にも嫌というほど存在する。ちょっと意味は異なるが、「どうしてママはパパみたいな男と結婚したの?」という母親への批判も、結婚しなければ自分が誕生していないことになるので自己存在否定につながる。裏を返せば自己言及のパラドックスについて過度に否定的に捉えると、自分さえこの世にいなければすべてがうまく収まるのに、という発想が生まれ、最悪の場合は自殺願望にたどりつくかもしれない。 |


●「無番車」ということで、もうひとつ思い出した。30年近く前にビルマの運輸通信省に3年間出向していたことがある。ビルマは旧称で現在はミャンマーと呼ぶ。ミャンマー「MYANMAR」というのはビルマ語であって、日本人がビルマと発音していたのは英語の「BURMA」が訛ったもの、ただBURMA自体も語源はビルマ語のBAMARから来ているので、どちらも同じようなもの。1989年に軍部がクーデターにより軍事政権を樹立した際に英語国名をMYANMARに改称する旨を宣言し、日本の外務省はいち早くこれを承認した。ただこれは、日本人が外国人に対して「ジャパンと呼ぶな、ニッポンと呼べ」と言っているのと同じで、一方的に言われた方はあまり好い気持はしない。だから今でも私は昔から慣れ親しんだ「ビルマ」と呼ぶし、アメリカやイギリスの政府はいまだに「BURMA」と表記している。よく軍事政権側の人はミャンマーを使い、軍事政権に反対する人々はビルマ「BURMA」を使うという色分けがなされると聞くが、私は軍事政権にも反軍事政権勢力にも、どちらにも興味がない。●ビルマの運輸通信省に出向している際に、ビルマ国鉄の輸送能力不足が非常に深刻化した。優等列車についてはフランス製のディーゼル機関車が近畿車両製の軽量客車を牽引していて、それなりに体裁を保っていたが、中短距離の普通列車は悲惨な状況にあった。ビルマでは第2工業省がバスの国産化を推進していたが、ラングーン市内の路線バスについてはフランス政府の援助によりルノー製のパリ市バスの中古品が大量に譲渡されて少し余裕ができたのを機に、第2工業省製のバスを鉄道車両に、すなわちレールバスに転用しようという話が、にわかに持ち上がったのである。基本設計は第2工業省側が担当、当初は鉄道車両の足廻りを利用して、バスのボディのみを上から被せるだけだと思っていたら、動力伝達部分の新作が面倒だということで、リア・アクスルまでバス用部品を生かすことになった。それでは鉄道の振動にアクスルの強度が持たないでしょう、と感想を述べたが無視されて設計はどんどん進捗し、わずか2ヶ月で試作車が完成してしまった。●完成した試作車は、動力車が1両とそれに牽引される無動力車が2両。動力車が搭載しているのは出力140PSのDS70型ディーゼルエンジンであり、しかも1軸駆動の動力車が客車を2両も牽けるのかと危惧したが、インセイン機関区構内での試験走行ではまったく問題なく、改めて鉄道車両の摩擦抵抗の少なさに感心した次第である。余談ながらインセイン機関区での試験走行に立ち会っているちょうどその時、たまたま全般検査のために元泰緬鉄道のC56が有火で入場してきたのに出くわし、こちらの方が大いに驚いた。当時のビルマは社会主義体制下にあり、鉄道車両及び施設の撮影は絶対禁止とされていた。それでもビルマ出向中にある程度は隠し撮りで撮影したが、さすがにこの時はビルマ国鉄の幹部が居並ぶ前であったので遠慮してしまったのが、後になってどうしても悔やまれる。●このレールバスは首都ラングーンと古都ペグー(ビルマ語でバゴー)との間を往復する郊外列車として運用されることが決まったが、もうひとつの問題は、片運転台式で一方方向にしか走れない3両編成を、終着駅ペグーでどうやって方向転換させるのかという点である。転車台で動力車と客車を1両ずつ方転させる方法を管理局長と相談していたら、われわれの知らないうちに国鉄総裁がペグー機関区裏手の空地に三角線を敷設してしまった。陸軍が保有するブルドーザー他重機類を兵士ごと借用して作った由で、だから建設費用はほとんどタダである。そのついでに総裁は三角線の傍らに、9ホールの自分専用のゴルフ場まで建設した。建設中のゴルフ場を覗いてみると、9ホールのティーグラウンドがすべて土塁を盛り上げた丘の上にあり、つまり全ホールが打ち降ろしになっている。傍らにいた総裁秘書官は「総裁は常に上から見下ろすのがお好きな人だから」とつぶやき、その時、私も悟った。「ビルマには公私混同という概念はない。公と私は一体不可分なのだ」●かのレールバスはHRBX402形という型式は登録されたが、車番は動力車・無動力車共に付記されておらず、無番車のまま試運転に臨むことになった。試運転には私は同乗していないが、インセイン−ペグー間を快走した由。直後に聞いた報告では特に大きな問題なし、とのことだったが、後でよく聞いたらペグーで折り返したところで運転士が調子に乗って速度を上げすぎ、2両目の客車が脱線したそうだ。ただ車体が軽いので、その場でジャッキアップして復旧し、無事インセインまで戻ってきた。脱線程度は大きな問題ではないのだな。この無番レールバスが、その後何両くらい製造されてどのくらいの期間稼動したのか、正確なところは私も知らない。 |

●0という数字は「位取り記数法」において、その桁が空であることを表すという意味で、重要な役割を担っている。ただ、ある実数の先頭に0を頂いても、その0には何の意味も持たない。エクセルで07という数字を打ち込んでも単に7と表記される。だから01や02、03というのは数字ではなく、記号と解釈すべきである。●国鉄では、01、02、03という形式が気動車に使用されていた。従来、気動車には40000番台の形式番号が付されており、戦前における代表的な16m級ガソリンカーはキハ41000形、20m級ガソリンカーはキハ42000形と称していた。戦後になって電気式ディーゼルカーのキハ44000形が開発され、それを液体式ディーゼルカーに設計し直したものがキハ45000形となる。ところが1957年(昭和32年)の車両称号規定改正により、気動車は2桁の数字で表記されることになり、液体式ディーゼルカーには10〜89までの番号が与えられた。これによりキハ45000形はキハ17形、キハ45500形はキハ16形、キハ46000形はキハ18形、キハ48000形はキハ11形、キハ48100形はキハ10形という具合にそれぞれ改称していった。●一方で機械式ディーゼルカーには01〜09までの数字が与えられた。01や02というのを2桁の数字と言ってよいのか、という疑問は残るが、まあ単純な桁合わせということで軽く解釈すべきなのだろう。この称号改正で、レールバスのキハ10000系の内、2扉車がキハ01形、1扉車がキハ02形、北海道向けの耐寒・耐雪構造車がキハ03形、16m級キハ41000系の内、DMF13型エンジン搭載車がキハ04形、日野自動車製DA55型エンジン搭載車がキハ05形、同DA58型エンジン搭載車がキハ06型、20m級キハ42000系がキハ07形と改称された。●続くキハ08形と09形というのは異色の気動車。ディーゼルカーの台頭によって過剰となる一般型客車の有効利用策として、これにエンジンを搭載して気動車化してしまおうという提案が国鉄北海道支社から出され、1960年(昭和35年)にオハ62を改造した両運転車キハ40形と、オハフ62を改造した片運転台車キハ45形が少数ながら製造され、後にキハ08・09形に改称された。異色と表現したのはかなりお世辞であって、通常の鋼製客車に通常のDMH17H型エンジンを搭載したので、非常に重い気動車になる。一般型客車のリサイクルといえば聞こえは良いが、キハ08形の自重は38.9t、キハ20形の31.0tより25%も重く、そんな企画が許されるのならキハ10系やキハ20系気動車での血の滲むような軽量化の意味は空中に気化してしまう。よくある会社や役所の裏話として、何でもいいから企画提案を出せ出せと上から迫られて、適当に書いて出したら、どうしたことかすんなり通ってしまった。出した当人が一番驚いた、という光景を勝手に空想するのもまた一興ではある。●デビュー後のキハ08・09形がどのような活躍をしたかについては、語るのも気の毒な状況だった。気動車にとって、特に積雪時は通常以上の出力が必要とされる酷寒地向けの気動車にとって、パワーウェイト・レシオの低さは致命的であって、出力に多少の余裕があるキハ22とコンビを組んだり、それでもだめな時は蒸気機関車の9600に後押しされたこともあったようだ。かくしてキハ08・09は1971年(昭和46年)には早々と全車引退の憂き目に会うのだが、そんな中にもラッキーボーイはいて、キハ083は兵庫県の加悦鉄道に譲渡、1974年(昭和49年)から同鉄道での稼動を開始した。この譲渡についてもやや首を傾げる点はあって、輸送需要が多くない加悦鉄道が、どうしてこんな鈍重で燃費の悪い気動車を使う気になったのかと。当時の状況から考えて、探せばもう少しマシな中古気動車はいくらでもあったろうに。今なら鉄道ファンの注目を集めるための客寄せ目的という発想もあり得るが、当時はまだ蒸気機関車以外の鉄道車両はほとんど話題にものぼらない時代だったと思うのである。 |


●蒸気機関車と国電の始祖についてはすでに述べたが、気動車の始祖はというと、これも国電よりもっと事情が複雑で、一般にはほとんど知られていない。というのは1953年(昭和28年)改正の車両称号規定によると、「気動車」という車両分類には蒸気動車が含まれるからで、蒸気動車の始祖はというと、1909年(明治42年)頃に関西鉄道がハンガリーのガンツ社から2両分の機械部分を輸入し、四日市工場で車体を組み立てたものだといわれている。この2両は製造後まもなく鉄道院に買収されてジ1・2とされ、その後ジ6000・6001に改称された。(なぜ6000番スタートなのだろうか) 一方、「内燃動車」という車両区分で考えるならば、蒸気動車が外されガソリン動車とディーゼル動車とガス動車を意味するので、こちらの始祖は1921年(大正10年)に福島県の好間鉄道が最初であるとされているが詳しい資料が無く、それ以前にも京浜電鉄や静岡県の根方軌道でも実験されたという記録があってはなはだ心もとない。またこれは機関車の分類になるのかもしれないが、1905年(明治38年)には筑後馬車鉄道が焼玉機関を搭載した石油発動車を走らせている。●鉄道省が最初に導入した内燃動車は、1929年(昭和4年)に池貝鉄工所製の48PS級船舶用ガソリンエンジンを日本車輌製の10m級2軸単車の床下に搭載したもので、キハニ5000形と称した。(今度は5000番ね) ところが翌1930年(昭和5年)に鉄道省は突然方針を180度転換し、200PS級ガソリンエンジンと出力135kw/hの発電機を車端の荷物室内に設置した電気式気動車を開発、台車は2+3軸ボギーで全長は20m、自重は50t近くに達した。この化け物のような気動車はキハニ36450形と称したが、当時は気動車としての形式番号が独立しておらず、客車の連番の続きとして登録された。●さすがに機関車のように重たい電気式気動車には将来はないと考えたか、次に鉄道省が投入したのは16m級の箱型車体にGMF13型という6気筒のガソリンエンジンと機械式変速機を搭載した極めてオーソドックスなキハ36900形である。この気動車は1932年(昭和7年)に製造が開始され、翌1933年(昭和8年)の車両称号改正で、気動車に40000番台の形式番号が与えられることになったため、キハ41000形となった。ところで翌1933年(昭和8年)に鉄道省はキハ41000形の車体長を11.5mに短縮した気動車を開発し、これにキハ40000形の形式を与えている。形式番号順から考えてキハ41000がキハ40000の車体を延長したものだと誤解されがちだが、実際はその逆で、ここでも時系列の逆転現象がおこっている。キハ40000は極端に輸送量が少ない地方路線において、車長短縮による軽量化とギア比を大きくとることによって、気動車1両で2軸貨車1〜2両を牽引することを目指したものだが、この試みはうまくいかず、大部分が中国大陸や地方私鉄に身売りされて、戦後はほとんど活躍していない。万能車両を企図して失敗した例がここにもあった。●国鉄に最後まで残ったキハ40000形も1950年(昭和25年)にエンジンを取り外して付随車のキサハ40800形に改造、後にキサハ04形に改称して境港線の列車にぶら下がっていた。 |

●ところで「キサハ」という種別名も、深く考えればちょっと不思議である。単純に解釈すれば「キクハ」は気動制御車、「キサハ」は気動付随車を意味し、この種別名は前述の鉄道省2番目の内燃動車であるキハニ36450形とペアと組むキクハ16800形登場の時点からすでに存在した。もっとも当時の気動車は運転台・エンジン共に装備するのが前提だったから、「キ」という1文字が運転台・エンジン付であることを意味する。この点は当時の電車も同じく運転台・モーター付であるのが当たり前だったから、「モ」の1文字で表現していた(つまり運転台付電動車「クモハ」と中間電動車「モハ」の区別がなかった)。ただ非常にうがった見方をすると、気動車の場合の「ク」と「サ」はエンジンを搭載していないという否定構文的な意味合いを持つことになり、最初の「キ」で「気動車である」と言い切っておきながら、次の「ク」と「サ」で「でもエンジンは積んでないよ」、つまり気動車であるが気動車ではない、我はAであってかつAではない、という論理的に矛盾した種別名であるような気がする。●この現象を無理やり理屈づけようとすれば、「キ」は気動車というカテゴリー全体を意味し、「モ」は電車の中の電動車のみをさす、つまり広義に解釈すべき「キ」と狭義に解釈すべき「モ」ということになる。もちろん、そんな細かいこと気にしなさんな、という声が聞こえてくるのは覚悟の上の話。●気動車の場合は、現在に至るまで運転台付と運転台がない中間気動車は、いずれも「キ」であって、両者の区別がない(キクハに運転台があって、キサハに運転台がないということはわかる)。前述の通り、気動車の黎明期には運転台・エンジン付であるのが当たり前だったし、その後も非電化区間の小編成運用が主であることから圧倒的に運転台・エンジン付車の比率が高いので、あえて区別する必要がなかったということなのだろう。が、1952年(昭和27年)にデビューしたキハ44000系気動車にはキハ44200形という運転台がない中間気動車が組み込まれたし、長大編成が前提となる特急用気動車キハ82系やキハ181系の場合は中間気動車の方が製造両数も多い。キハ44200形は後にキハ10系気動車に編入されてキハ19形に、またキハ46000形という中間気動車も増備されてキハ18形に編入されているが、運転台付か無しか、という点については、17か18か19かという形式番号を頭で覚えておくしかない。●またまたそんな細かいことを・・・という声が聞こえてくるのだが、鉄道模型を販売する立場の人間としては、前照燈・尾燈が点灯するかどうかをチェックする場合に、電車の場合は「ク」という文字を追っていけばいいのだが、気動車の場合は「キ」という文字だけではわからないという、案外難儀な問題を抱えているのである。大げさな言い方をすれば、鉄道通にとってはどんな形式名や種別表記を持ち出されてもたじろかない(もしくはわかったふりをする)のだが、初心者にとっていまひとつわかりづらい理由のひとつに、形式名や種別表記自体があまり論理的な構成になっていないことが挙げられると思う。 |


●内燃車両とは、文字通り内燃機関を動力とする車両であって、主な内燃機関はガソリンエンジンとディーゼルエンジンである。両者はいずれも19世紀末頃に実用化されており、ディーゼルエンジンは、意外にもビルマやインドネシアの山岳民族が焼畑の際に伝統的に用いてきたファイア・ピストンからヒントを得たものだといわれている。ガソリンエンジンに比べてディーゼルエンジンの方が経済性と安全性の面で優れていることはわかっていたが、日本の鉄道界ではディーゼルエンジンの実用化は大きく遅れをとっていた。理由はものすごく単純で、戦前は優れたディーゼルエンジンに恵まれなかったからに他ならない。鉄道省では新潟鉄工所製の100PS級6気筒エンジンをキハ41000形に搭載したキハ41500形や、新潟鉄工所、三菱重工、池貝鉄工所の3社に競作させた150PS級8気筒エンジンをキハ42000形に搭載したキハ42500形等、少数のディーゼル動車を開発していったが、それらが実用の域に達する前に太平洋戦争に突入し、本格的なディーゼルエンジン開発は宙に浮いた形となってしまった。●太平洋戦争直前の1940年(昭和15年)1月29日、ガソリンエンジンの危険性を露呈する大事故が大阪で発生した。西成線(現在の大阪環状線と桜島線)は当時未電化だったが、桜島周辺の軍需工場への人員輸送で大わらわの状況にあり、朝夕のラッシュ時はキハ42000形ガソリンカー3輌編成が10分間隔でピストン輸送を行っていた。早朝の6時40分に大阪駅を発車した1161列車が安治川口駅に進入し、本線と1番側線を分岐するポイントを渡ろうとした時、まだ3両目の後部台車が渡り終える前に突然ポイントが切り替わったため、3両目のキハ42056は股裂きの状態になり、そのまま島屋踏切の敷石に乗り上げた上に電柱に激突、横転した。踏切の敷石に乗り上げた際にエンジンのプロペラシャフトが折損してガソリンタンクを突き破り、漏れ始めたガソリンが引火してキハ42056はあっという間に全焼。引火の原因は、車体が敷石の上を引きずられた際に発生した火花か、もしくは、横転時にバッテリーがショートして発火したためであるとされているが、後者の場合はガソリンタンクとバッテリーが隣接して設置されていた設計にも問題が出てくる。この車両には乗客定員96名に対して300名以上が乗車しており、事故によって189名が死亡、67名が重軽傷を負った。●事故を起こしたガソリンカーの車番がキハ42056だったことから、当時の人々の間では「死に頃」とか「死にまる殺し」とささやかれた。事故原因については直接・間接を含めてさまざまに検証されているので、ここでは省くが、大きな要因として燃料に引火点が低いガソリンを使用していたこと。ちなみにガソリンは、引火点が低く(−40℃でも引火する)発火点が高く、逆にディーゼルエンジン用の軽油は、引火点が高く(+45〜50℃)発火点が低い。だからガソリンは第4類危険物の中でも2番目に危険な第1石油類に指定されており(軽油や灯油は第2石油類)、一般に想像されているよりも相当に危ない物質。第2次世界大戦頃までは戦車もガソリンエンジンを使用するものが多かったが、ドイツ機甲師団の将校が、「まさにガソリンタンクを背負って敵前を走っているいるようなもの」と嘆いたがごとく、今では戦争中の日本の狂気のように言われている火炎瓶を持って肉弾突撃するという戦法も、ガソリン戦車に対しては結構有効だったらしい。だからわれわれが日常的にガソリンエンジンの自動車に乗っているという行為も、いくらメーカーが衝突安全性を向上させたとしても、衝突や横転によってガソリンが漏れれば、あっという間にキハ42056と同じ運命に遭う、かなりな冒険であるといえなくもない。●事故のもうひとつの大きな原因はは、なぜ3両編成が渡り終えないうちにポイントが切り替わってしまったかということ。ポイントについては、安治川口駅の閉塞信号掛が焦って切り替えてしまったためという情けないほどに単純なミスであることが判明したが、ならば彼は何をそんなに焦っていたのか。朝のラッシュ時間帯で、事故を起こした1161列車の後続には、蒸気機関車が牽引する臨時6001列車がひとつ手前の西九条駅に接近しつつあり、この列車は西九条駅を通過して安治川口駅の1番側線に入線する予定だったが、先発の1161列車が早く閉塞区間となるポイントを通過し終わらないと、西九条駅で臨時停車せざるを得なくなる。蒸気機関車はいったん停止してしまうと再び列車を牽き出すのが大苦労で、余分に時間もかかるし燃料も無駄に消費する。特に太平洋戦争直前の、燃料の不足が非常に深刻化していた時代、安治川口駅の閉塞信号掛はそれを恐れていたのに他ならない。彼は後続の蒸気機関車を止めたくなかったのだ。今動いているものを一旦止めるというのは、案外大変なこと。それは止まっているものを動かすのに比べて10倍以上の労力が必要。仕事のプロジェクトでも、戦争でも、恋愛でも。これらの場合は、ちょうどタイミング良く停止するというのはむしろ極めて稀で、大抵はもう本当にどうしようもない状況まで追い込まれて、大変な犠牲を払って、やっと止まるのね。 |


●最後はゼロになる話。鉄道車両の死について。鉄道車両も寿命がくれば廃車になる。ただ一般に機械製品の寿命には、物理寿命と経済寿命と商品寿命の3種類がある。物理寿命というのは例えば錆や劣化等によって物理的に機械製品として使用できなくなった時点を指し、「朽ち果てる」という詩的な表現の方がわかりやすい。鉄道車両の物理寿命は何年位かというのを論ずるのは難しいが、設計や素材・製造工程がしっかりしたもので、稼働中も酷使せずメンテナンスをしっかりやれば50〜60年はもつのではないか。極論だが「半永久」という説もある。事実、欧州の保存機関車の中には車齢100年を超えるものも珍しくない。経済寿命というのは維持管理コストが段々嵩み始めて代替コストを上回った時点、すなわりわれわれが日常生活でよく経験する、故障した電気製品を修理に出そうとしたら電気屋に「新品を買った方が安い」と言われる、そういうことである。最後の商品寿命というのは、簡単に言えば流行遅れになった、あるいは機能が古くなった、ということで、まだまだ実用には耐えれるのにうち捨てられてしまう。経済寿命と商品寿命を合わせて「価値寿命」と呼ぶこともあるが、この2つを同一にみなすのは、いささか乱暴に思われる。●鉄道車両の場合、かつては物理寿命ぎりぎりまで使用される例も多かったが、最近は経済寿命の段階で廃車になるケースが多いように思う。日常で使用される耐久消費財の場合は、携帯電話やパソコンを始めとして、大部分が商品寿命の段階でお役御免になっている気がする。では「エコ」による代替はどうかというと、これも「エコ」という供給者サイドが創造した「流行」による一種の商品寿命であると、私は考える。国鉄時代の鉄道車両の廃車は、固定財産管理規定上の正式名称は「車両用途廃止」といい、各車両工場長が関係局長と協議の上廃車を具申し、国鉄総裁の決裁により決定する。廃車が決定した車両は、車両台帳、いわゆる車籍簿から抹消され、その時点でその車両は、この世に存在しないことになる。ちなみに車両台帳とは別に、各車両の運転キロ数、故障、修繕の記録、更には習性に至るまで、克明に記録された車両履歴簿があり、この履歴簿は車両の移動に伴って一生ついてまわる。太平洋戦争の終戦直前に、アメリカ軍による進駐に対して過敏になった国鉄当局は、各車両基地に重要書類や秘密書類の焼却を命じたため、かなりの車両履歴簿も灰になってしまい、D51を始めとして、この頃に製造された機関車は、その新製配置区すらわからなくなってしまった。●もっとも車両台帳も結構いいかげんなところもあって、誤記等も多く、同じ形式番号の車両が重複して存在していることになっていたりして、これは「2車現存車両」という国鉄の正式用語になっているくらい、頻繁に発生していたようである。改造の記録にしても、私が知る限りでも、車両履歴簿上は重油タンクを装備していることになっている機関車が、写真を見る限りどこにもそんな痕跡がない、という例もあった。要は文献や記録だけで物事を判断するのは非常に危険だということ。現車を見ないとね。記録と現車が違うということについては、もうひとつ面白い話があって、20年くらい前に客車模型ファンの間で、3軸ボギー台車をはく食堂車マシ29に青色塗装が存在したかどうか、ということが話題になった。マシ29は近代化改装工事を受けていないので、理屈上はあり得ない。車両履歴簿上も塗装変更をしたという記録がない。ところが父親の知人で、かつて関西支社の客貨車課長だった方がいて、あれは急行「玄海」を組成する際に、食堂車だけぶどう色なのはみっともないので自分が独断で青15号に塗らせたのだ、と父親に語ったそうである。 |


●鉄道車両も廃車によって死を迎える。厳密に言うと死という現象が発生するのではなく、この世に存在しないことになるのである。だから車両用途廃止というお役所の手続きを踏んだ後も、機関車という物質は解体されるまで鉄塊として存在するが、鉄道車両としてはもう存在しない。蒸気機関車時代には廃車にもひとつの儀式があって、まずナンバープレートが外される。これはナンバープレートが砲金製で高価なため盗難防止のためもあったのかしれないが、電気機関車についてはナンバープレートを外された廃車体を見たことはない。しかしナンバーがないと何号機だったかわかりづらいので、プレート撤去跡には白ペンキでナンバーが書かれていて、これはとてもわびしい。また、左右2本のメインロッド(主連棒)も外されて、大抵は石炭がなくなったテンダーの上に置いてある。これは解体場への回送時にシリンダーに減圧が発生しないための当然の措置なのだが、メインロッドを失った機関車は、もはや自力で走行することができず、このナンバープレートとメインロッドの喪失が機関車の死を視覚的に実感させる。●国鉄時代には「休車」という制度もあった。これは運用上の都合等により、長期間使用しない車両を使用休止扱いにするもので、休止期間中は各種検査の期限が延びるというメリットがある。休車というのは俗称で、正式には「使用休止機関車」と呼ぶ。だから電車や気動車については休車はなかったのかもしれない。ちなみに1ヶ月以上にわたって休止するものを第1種、もはや機関区に配置する必要がなくなったものは第2種と分類されているが、私には両者の厳密な区別がよくわからない。昔の機関車配置表を見ても、「2休」と但書がつきながら機関区に配置が記載されている例もある。●畢竟、数字というのは絶対的なもののように見えて、相対的なものである。唯一「ゼロ」を除いて。「ゼロ」とは全ての始まりを意味すると共に、全ての終わりを意味するのではないか。その終わりが無いということが「無限」であって、だから「ゼロ」と「無限」とは紙一重の、というか紙の表裏のような関係にあるのではないか。●まだ学生だった頃に、般若心経の文言の中で、「色即是空」というのはなんとなく意味がわからないでもないが、反対の「空即是色」というのはさっぱり理解できなかった。どうして「空」が即ち「色」なのか。20年くらい前に、ふと「色即是空・空即是色」というのは宗教的・哲学的な難しい概念のことをいっているのではなく、単にゼロと無限とは表裏一体だという算数の話をしたかっただけではないか、と思った。般若心経を書いたのもゼロを発見したのも、同じ古代のインド人だったことだし。【我は宇宙であり、宇宙は我である】色即是空の「色」を「人間の欲望」と解釈する解説書は多いが、確かに欲望は無限であり、だからこそ科学技術も飛躍的に進歩するのだが、反面、某社のように会社をやたら大きくしたりアメーバのようにお店を増やしたりしたために、最後は崩壊する(ゼロに戻る)のも確かかな。●一昨年に私は大病をして2ヶ月間の入院を余儀なくされ(その際は、特に八王子店のお客様には多大なご不便をおかけしましたこと、ここにお詫び申し上げます)、ベッドの上で否応なく死というものと直面せざるを得なくなった時、抗がん剤とモルヒネ漬けで朦朧とした頭の中で、ふと考えた。死ぬということは時間の流れが停止することに他ならない。ところで時間と光と空間と磁場と重力はいずれも同じようなものであるから、時間を失った死者にはもはや光も空間も磁場も重力も存在しなくなる。つまり絶対無の世界へ行く(無なのに世界とか行くとかいう言い方も矛盾するが)わけである。一方で恐怖というのは、存在する何かに対して抱く感情であって、何も無いのに対して怖がることはない。 と、思い至った時、死への恐怖が随分と薄らいだ。●では、「絶対無」はというと、ここに更に厄介な問題が発生する。最近の物理学の研究では「絶対無」というものが存在しないのではないか、ということがわかってきたからである。物質が何もない「無」の空間の中にも「ヒッグス場」というものが存在し、更に不確定性原理というのに基づけば、時間も空間もない「絶対無」というものは存在してはいけない、ということらしいのである。「無い」は「無い」といわれても、もはや私の思考のレベルを遥かに超えている話であって、ただ呆然とするほかない。結局、われわれも鉄道車両も、死してゼロになるというのではなかったということか。 |
