雨宮

1958.4. 沼津市内 Photo by: T. Satomi

雨宮と書いて「あめみや」と読む。

明治の鉄道資本家、雨宮敬次郎氏が1907年(明治40年)に設立した小型車輌

専門メーカーである。ちなみに創設者の姓の「雨宮」は「あめのみや」だが、

車輌メーカーの方は「あめみや」で通っていた。

雨宮敬次郎氏は明治中期の産業資本家、悪くいえば相場師でもあったが、

早くから鉄道の将来性に目をつけ、日本初の郊外鉄道である「甲武鉄道」

(現在のJR中央線)や北海道炭鑛鉄道東京市街鉄道等の設立や経営に

参画、「日本の鉄道王」とも呼ばれた。

1906年(明治39年)に制定された「鉄道国有法」は彼にとっての一大転機と

なった。すなわち日本の幹線鉄道はすべて国有鉄道が掌握し、私有鉄道は

地方交通のみを担当するという政策が推進されたわけで、ここで彼が着目

したのが建設費の安い軽便鉄道だったのである。

彼は日本中の軽便鉄道を手中におさめる夢を抱き、1908年(明治41年)には

早くも「大日本軌道」という壮大な名前の鉄道会社を設立、全国に8つの

支社を置いた。

それに先だって1907年(明治40年)に自社の鉄道会社に車輌を供給すること

を主たる目的として東京深川に「雨宮鉄工所」という車輌メーカーを設立

した。尚、工場敷地は夫人のへそくりで購入したというのどかな設立秘話も

残っている。

「雨宮鉄工所」は1911年(明治44年)に大日本軌道と合併して同社の鉄工部

となり、本格的な車輌製造を開始した。

大日本軌道鉄工部が最も得意としたのは軽便鉄道用の小型蒸気機関車

であり、いわゆる「隙間商品」として国内に大きな競争相手がないまま、

次第に業績を伸ばしていく。最大の敵はドイツのコッペル(Koppel)社。

神風が吹いた。1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦によってドイツ

製車輌の輸入が途絶え、欧米の車輌メーカーも日本向け輸出どころでは

なくなってしまったため日本国内市場をほぼ独占する形となったのである。

1944年(明治44年)に制定された「軽便鉄道法」ももちろん追い風になっていた。

大日本軌道鉄工部は1919年(大正8年)に再び独立して「雨宮製作所」となる。

しかし「雨宮」の神風はここまでだった。

1923年(大正12年)に発生した関東大震災によって深川工場はほとんど壊滅

してしまった。そして世界中を襲った経済大恐慌。この頃になると「雨宮製作

所」は鉄道車輌の製造をほとんど行っていない。最後はいつ消え去ったの

かもよくわからないような状態で、1934年(昭和9年)頃に廃業したのである。

「雨宮」は軽便鉄道用を中心に400輌以上の蒸気機関車を製造したと

思われるが、会社自体が消滅したため記録類がほとんど残っておらず、

正確な製造輌数も、各機関車の諸元についても不明な点が多い。

「雨宮」は蒸気機関車の他、電気機関車やディーゼル機関車、電車、客車、

気動車とさまざまな車輌を手がけており、戦前の地方私鉄には「雨宮」の

車輌を至る所で見ることができたが、戦後はそれらも急速に姿を消して

いった。

上はその貴重な生き残りのひとつで、1925年(大正14年)製造の伊豆箱根

鉄道モハ15、下は1922年(大正11年)製の遠州鉄道奥山線ハ3(後に電車

付随車化されてサハ1102)で、いずれも木製車輌だった。

鉄道界において隆盛を誇った「雨宮」の名は、その車両達と共に永遠に

歴史の渦の中に消え去ってしまったのである。

1964.3. 遠州鉄道奥山線元城車庫 Photo by: T. Satomi