
明治初期に交通途絶の地と呼ばれた山陰地方において、その大動脈となるべき山陰本線京都−幡生間が全通したのは非常に遅く、実に1933年(昭和8年)のことである。最後まで未通で残っていたのが須佐−奈古間と正明市(現在の長門市)−滝部間だった。山陰線創業時の機関車は、東海道・山陽本線他で使い古された雑型機関車が寄せ集められ、具体的にどのような機関車がどこに配置されていたかも正確にはわからないというのが実態だが、大正末期になると旅客用として6700形・6760形・8620形、貨物用として9600形といった制式機関車が配置されるようになった。太平洋戦争後は山陰本線にもD51形が続々と入線、特に正明市機関区(後の長門機関区)にはD50形を飛ばしていきなりD51形が配置され、長門機関区は蒸気機関車終焉の時期まで西山陰におけるD51形蒸気機関車の一大牙城として残ったのである。 |