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このコーナーでは全国各地
に残っている鉄道に纏わる
民話や奇談・怪談を集めて
みました。
皆様がご存知の民話や奇談
・怪談がありましたら是非
このコーナーへの投稿を
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 −目次−

第13話 トンネル・ドン


第13話 トンネル・ドン


●列車の窓からは見えないが、大きなトンネルの入り口には大抵「○○隧道」

 という標識が掲げてある。トンネルの入り口に掲げてあるから「隧道」とは

 トンネルのことかなと想像できるが、この言葉は死語になる以前に一般生活

 の中ではほとんど用いられなかった日本語である。

 そもそもこの漢字をさらさらと書ける人が日本人の中で何人いるのだろうか。

 漢字が難しいので「ずい道」と平仮名で書く場合もあるが、これでは余計に

 意味がわかりにくい。

 江戸時代までの日本人がトンネルのことを何と呼んでいたかはわからない

 が、少なくとも明治以降は英語の呼び方が一般的になっていたようである。

「昭和30年〜40年代の鉄道写真 」の下山賢悟さんの古鉄写真CD-ROMより許可を得て掲載

●トンネルの呼び名はともかく、人類の有史以前から原始の人々は岸壁に

 穴を掘って横穴式住居としていたわけだし、通路としてのトンネルも紀元前

 4世紀頃にはピラミッドの内部へ200mも続くものが掘られていた。

 大昔のトンネルはノミと槌だけで掘っていたように想像しがちだが、あに

 はからんやローマ時代には岩石の上に火を焚き水を注いで崩壊させる方法

 や、石灰質の岩石には硝酸をかけて溶かす方法もすでに 実用化されて

 いたというから人類の知恵は大昔から結構進化していた。

●日本で明治時代以前に掘られたトンネルとして非常に有名なものに大分県

 の耶馬渓に今も観光名所として残っている「青の洞門」がある。

 耶馬渓の「鎖の渡」は山国川の流れの上にそびえ立つ急峻な峠道で、

 その名の通りかつての旅人は岩壁に造られた桟橋を鎖を握りながら渡らな

 けらばならず、うっかり足を滑らせて命を落とす者が後を絶たなかった。

 1735年(享保20年)にこの地を訪れた越後の旅の僧侶「禅海」は、この様子を

 見て人々の難渋をすくうための大悲願を立て、ノミと槌だけを頼りにたった

 一人で洞門を掘り始めたのである。

●禅海は元の名を福原市九郎といい、かつて主人の中川四郎兵衛を殺害し

 諸国を放浪していたが、やがて罪業の深さを悔いて出家したという過去を

 持っており洞門堀りはその罪滅ぼしだったのだが、そんなことは知らない

 地元の村人達は禅海を狂人扱いして相手にしなかった。

 やがて20年の歳月が流れたある日、禅海を父親の仇と狙う中川四郎兵衛

 の一子実之助が姿を見せ、禅海に立ち向かった。

 この時禅海はまったく動じず

 「せめてこの洞門を掘り抜くまで待ってほしい。仇討ちはそれからでも遅くは

 ないはず」と懇願した。

 実之助は禅海の申し出を受け入れ、翌日から今度は二人で洞門を堀り始めた。

 実之助としては一刻も早く洞門を完成させて親の仇討ちを果たしたかった

 のである。

●そしてまた数年の月日が流れ、目的が異なる二人の間になにか共通の

 目的意識のようなものが芽生え始め、ついに洞門が完成した日、潔く首を

 差し出した禅海に対し、実之助は禅海の手を取って

 「もはや恩讐の念は消えました。ともに父の法会を営みましょう」と涙ながら

 に叫んだのであった。

 以上が菊池寛の「恩讐の彼方に」に描かれた名作物語の場面である。

 物語の結末は説教臭い美談にまとまっているが、一説によると「青の洞門」

 完成後、禅海和尚は通行人から4文、馬から8文の通行料金を徴収して

 大儲けしたという話もある。

 なるほど、確かに禅海和尚が無料(タダ)で洞門を通したとはどこにも書か

 れていない。それは伝説を聞いたり「恩讐の彼方に」を読んだ人が勝手に

 そう想像するだけだ。恐らくこれが真実に近い話なのだろう。

 しかしこちらの話の方が思わず鼻をつまみたくなるほど人間臭に満ち溢れ

 ていて、とてもいいじゃないか。

●最初から話が脱線したが、鉄道用トンネルとして世界初のものは、1820年

 代にイギリスのリバプール・アンド・マンチェスター鉄道(Riverpool & Manchester

 Railways)によって掘削され、1830年代にアメリカでも最初の鉄道用トンネル

 が掘られた。

 日本最初の鉄道用トンネルは1989年(明治3年)に着工した大阪−神戸間の

 石屋川トンネルだが、これはイギリス人技師の指導によるもので、全長も

 61mと短く、天井川の下を掘ったものなので本格的なトンネルとはいえず

 歴史的意義があるというだけである。

●日本人の手による最初のトンネルは有名な東海道本線旧線にあった

 逢坂山トンネルで、1878年(明治11年)に着工して1880年(明治13年)に完成、

 全長665mの本格的な山岳トンネルだった。工部省直営の生野銀山から

 工夫が呼ばれたが、彼等の大多数は殺人・傷害などの罪を犯した囚人達で

 あった。しかし彼等の機嫌を損ねると工事がストップしてしまうので、工事

 責任者の国沢能長技師は毎晩、彼等と一緒に飲み、歌い、踊り、花札賭博

 の座に加わってご機嫌を取ったというエピソードもある。

 このあたりの地質は微塵石で水分が多く、日本初にしてはしょっぱなから

 難工事に挑戦することになってしまった。頂設導坑式という天井の部分から

 掘り始めて次第に掘り下げていくという、軟弱な地質をにらんで日本独自で

 考案された工法が採用されたが、1979年(明治12年)に落盤事故が発生して

 作業員5名が生き埋めとなり、日本初のトンネル工事犠牲者を出すという

 不名誉な記録も付随している。

●完成にあたって三条実美卿の筆による「楽成頼功」の石額が掲げられたが、

 トンネルの場合は「落成」では誠に縁起が悪いということで「楽」の文字が

 使われたという。もしかするとこれが日本の鉄道事業における最初の「縁起

 担ぎ」だったかもしれない。

●時代はやや下って東海道本線の一部として1889年(明治22年)に開通した

 湖東線の彦根−米原間にあった仏生山(むしやま)トンネルには妖艶な

 伝説があると沢和哉氏著「日本の鉄道ことはじめ」(築地書館刊)に記され

 ている。

 湖東線の仏生山付近は当初、両面切り通しで開通したが、その後なぜか

 上面に煉瓦を積んでわざわざ長さ31mのトンネルに変更された。

「丘陵地帯の仏生山には、昔から海の神様である「龍神」が住んでいた。

ちょうど仏生山トンネルの位置は、湖岸から西方に約五十キロ離れた湖中の

竹生島にいる美しい弁財天のもとに、龍神が通っていく通路となっていた。

たまたま明治二二年七月、鉄道がこの仏生山の中央を両面切り取りによって

開通したことにより、龍神が従来から利用していた通路は遮断されることと

なった。

 烈火の如く怒った龍神は、切取箇所の上部からさかんに木や土砂を線路上

に落下させて、汽車の運転を妨害した。この運転事故の続発は龍神のお怒り

によるものだった」

●線路に置き石をするとは随分せこい龍神様だが、美しい弁天様との恋路を

 鉄道ごときに妨害されたことに対するお怒りは察してあまりある。

 そこで鉄道局側は切り通しの上部を煉瓦でふたをして龍神の通路を確保

 したということである。

 なぜ施行当初の切り通しが後になって天井にふたをされたのかはともかくと

 して、数ある鉄道伝説の中で私はこの話に豊かな叙情性を感じる。

 ちなみに「龍神」は水の神様である。龍は世界中に民族に伝わる最もポピュ

 ラーな空想上の動物であり、日本産の龍は中国から伝来したものだと思わ

 れる。中国の龍はすべての動物の祖とされ、頭はラクダ、角は鹿、眼は兎、

 首は蛇、耳は牛、鱗は鯉、手のひらは虎、爪は鷹を表す。十二支の中で

 実在しない動物としては唯一、堂々のエントリーを果たした。

 日本では降雨の他、雷や竜巻などすべての自然現象をつかさどるといわれ

 ており、とりわけこれらの自然災害に影響を受けがちな鉄道工事関係者から

 は大いに畏怖されていたのではあるまいか。

 尚、竹生島に棲む美しい弁財天も龍神の化身であるという説があり、この

 伝説と符合する。竹生島には古くから琵琶の名器が伝わっていて、源平

 合戦の頃、木曽義仲を打つためにこの近くをさしかかった平家の武将

 平経盛の子の但馬守経正が、竹生島に詣でてこの名器を借りて秘曲を

 弾じると、その玄妙な響きに感応した白龍が姿を現したという伝説も伝わ

 っている。

●しかしトンネルにまつわる伝説は微笑ましいものばかりではなく、むしろ

 陰鬱な怪談の方が多い。その理由のひとつとして過去にトンネル内において

 様々な事故が発生して、多くの尊い命が落とされていることが考えられる。

 トンネル内での事故で最も多かったのが煤煙による乗務員や乗客の窒息死

 ないしは一酸化炭素中毒死である。

 最近の保存運転用蒸気機関車は最上級の輸入無煙炭を用いているので

 ほとんど黒煙を発しないが、現役時代は低質の国内炭が使われていたため

 によく黒煙が出た。ファンが撮影する分には勇壮で絵になるが乗っている方

 はたまらない。トンネルに入ると吹き上げられた煙が天井にぶつかって

 跳ね返り、機関車の運転室や客室内に猛烈な勢いで飛び込んでくる。

 平坦なトンネルはまだいいが、最悪なのは上り勾配が連続するトンネルの

 場合で、ちょうどトンネルが煙突の役割を果たしてしまい、排出された煙が

 一緒に移動するのでいつまでも列車にまつわりつく。黒煙が吹き込んで

 来た運転台は光が遮られて真っ暗になる。

●私は昔、関西本線の亀山発

 草津行列車の最前部車輌に

 乗り込み、車掌室でD51形

 蒸気機関車が鈴鹿越えをする

 音を録音しようとしたが、列車が

 全長600mの加太トンネルに

 入った瞬間、車掌室内はもの

 すごい煙に包まれて冗談抜きに

 死ぬかと思った経験がある。

 事実、明治の頃から鈴鹿越えは関西随一の難所であり、関西鉄道時代の

 機関士は暗闇の中、列車が前進しているのか後退しているのかもわから

 なくなり、運転席から側壁に手を伸ばして壁が後ろへ行くのを確認したそう

 である。

●もっとも黒煙自体は石炭の燃焼ガスから析出する微粒炭素の集合体であり、

 もちろん人体にとって無害ではないが、それが直接人間を死に至らしめる

 わけではない。恐ろしいのは排出される煙に含まれる一酸化炭素の方だ。

 蒸気機関車の煤煙には通常時でも0.1%程度の一酸化炭素が含まれている

 が、一方で人体が一酸化炭素中毒を起こし始める濃度は10ppm、すなわち

 0.001%であり、中毒の症状は濃度X曝露時間に比例するので一瞬吸い

 込んだくらいならどうってことはないが、中毒発症濃度の100倍の一酸化

 炭素を長時間吸い続けたらどうなるか。

 しかもこれは蒸気機関車の正常運転時における煤煙の濃度であって、罐の

 調子が悪い機関車や質の悪い石炭を用いた場合の一酸化炭素濃度は

 なんと2%、20,000ppmにものぼるといわれ、こんな煤煙を吸い込んだら

 トンネルを抜ける頃には確実にあの世へと旅立ってしまう。

●ここに悲惨な実例がある。

 1959年(昭和34年) 4月6日、播但線の臨時団体列車牽引のため応援に行った

 福知山機関区のC54 5号機は7輌編成の回送列車を牽引中、蒸気がどう

 しても上がらないため生野トンネルの手前で5、6分停車して再出発したが、

 トンネル内で機関士・機関助士共に意識不明に陥った。

 列車は停車するはずの生野駅を通過して15.2‰の下り勾配にさしかかると

 どんどん速度を増してついに脱線転覆、2人の乗務員は殉職した。

 生野トンネルの全長はわずか614m、列車は換算21輌でそれほど重かった

 わけではなく、しかもC54 5号機は背向で牽引していたので比較的煙に

 襲われにくい状況にあったのにもかかわらず事故は起こった。

 この場合、生野トンネルの断面が比較的小さかったというのが問題点の

 ひとつ、もうひとつはこの機関車が生野トンネル手前で蒸気が上がらない、

 すなわち何らかの原因で「蒸気不昇騰」という現象を起こしていて、煤煙中

 に大量の一酸化炭素を含んでいたと考えられるのである。

所澤秀樹氏著「鉄道の謎なるほど事典」(PHP文庫刊)の中には、東海道

 本線が未電化だった時代に京都−山科間にある東山トンネルを通過する

 列車のデッキから、乗客が次々に転落死する事故が紹介されている。

 そして事故は奇妙なことに上り列車にだけ発生した。

 この本の中では蒸気機関車の吐き出す煤煙が原因かもしれない、としな

 がらも

「はたして、本当に煙が原因なのか、それとも幽霊の仕業なのか、電化され

てしまった今となっては、解明するすることはできない」

 と控えめに書かれているが、これは断言していい。煙が原因である。

 まず上り列車にだけ事故が発生している点、これは上り線が東山トンネル

 内では10‰の上り勾配になっていて、前述の通り煙が列車にまつわりつき

 やすいからだ。逆に下り勾配の下り線の場合は機関車が絶気で降りて行く

 から全く問題ない。また東山トンネルは上り下りがそれぞれ別の単線に

 なっていてトンネル断面がかなり狭かった。生野トンネル事故の場合と状況

 が非常によく似ているのである。

 戦後、この区間の貨物列車は牽引機はD51形とマンモスD52形が共通で

 運用され、パワーの点では文句なくD52形の方があるにもかかわらず、

 乗務員からは敬遠されがちだった。なぜならば東山トンネル内ではD52形

 の方がボイラーが太い分、断面の狭い東山トンネル内では機関車と壁面

 との隙間が小さくなり、それだけ煤煙が運転室を直撃しやすかったからだ。

●トンネル内の事故は蒸気機関車の煙が原因となるものだけではない。

 1974年(昭和47年)11月6日未明、北陸本線の上り501列車急行「きたぐに」 

 は、全長14kmに及ぶ北陸トンネル内を通過中に食堂車のオシ17 2018

 が突然発火炎上し、死者30名、負傷者714名を出すという大惨事となった。

 「きたぐに」の牽引は交流電気機関車のEF70形であり、原因は食堂車の

 電気暖房装置から漏電発火したものだった。が、列車がトンネル内で停車

 してしまったために燃える食堂車の煙がトンネル内を歩いて避難する乗員・

 乗客の命を奪ったのである。

 ただ北陸トンネルは断面の面積が広い複線用のトンネルであることが

 せめてもの救いだった。これがもし東山トンネルのような上下線別の単線

 トンネルで発生していたら、被害は記録的なものになっていただろうと思わ

 れる。

●近鉄奈良線の旧生駒トンネルは昔は呪われたトンネルとして有名だった。

 これは大阪電気軌道開通に伴って1914年(大正3年)に掘られた全長3,388m

 の私鉄最長のトンネルだったが、敗戦直後の1946年(昭和21年)に旧生駒

 トンネル内で電車が燃えて28名が死亡、75名が負傷するという大事故が

 発生し、翌1947年(昭和22年)にはやはり同トンネル内で電動機が過熱して

 発火し、40名が負傷した。そして更に翌1948年(昭和23年)には奈良発上六

 行の上り急行電車が旧生駒トンネル内でブレーキがきかなくなり、停車する

 べき孔舎衛坂(くさえざか)駅を通過、そのまま下り急勾配を転げ落ちて

 いって花園駅付近にて先行の普通電車に追突するというショッキングな

 事故が起こった。この事故によって死者49名、負傷者は282名を数えたが、

 犠牲者の数の多さよりも世間ではノー・ブレーキの下り勾配という現象の

 イメージに恐怖するとともに、毎年のように起こる大事故に沿線住民は

 旧生駒トンネルの祟りではないかと噂しあった。

●しかし当時、大事故が頻発していたのは祟りでも偶然でもない。

 ノー・ブレーキ事故の原因は、エア・ブレーキのホースが老朽化で破れて

 圧搾空気が漏れてしまったためであり、電動機の発火もやはり電気配線が

 老朽化していたのが原因である。

 敗戦直後の鉄道車輌は近鉄に限らず全国的に荒廃を極めており走るのが

 やっとという状態、補修部品の調達もままならないため整備が行き届いて

 いなかった。

 従って当時は同様の事故は国鉄・私鉄を問わず日本中で頻発しており、

 不幸にも急勾配の頂上でブレーキがきかなくなった近鉄奈良線急行電車の

 場合は大事故につながってしまったのである。

●しかし瓢箪山に住んでいた私の叔父は何度も何度もこの事故の話を幼い

 頃の私に話して聞かせると共に、それは旧生駒トンネルが開通当初から

 呪われていたためである、と言い放った。

 奈良発上六行最終電車の最後尾車輌の連結幌の所にきまって一人の男が

 立っているが、旧生駒トンネルを通過した頃になるとふっと消えてしまうと

 いう怪談話もよくしていた。これは私が生まれて始めて耳にした鉄道怪談

 でもある。

 近鉄奈良線では1964年(昭和39年)に新たに全長3,494mの新生駒トンネル

 を掘って若干ルートを変更した。これが「祟りを避けるため」であるなら話

 としては面白いが、実際には旧トンネルの断面が狭くて新性能車輌が入れ

 なかったためである。新トンネル開通と共に、旧トンネル西口にあった孔舎

 衛坂というなにか由緒ありそうな名前の駅も廃止された。

 新トンネル開通後によって閉鎖された旧トンネル入口は、生駒駅を発車する

 上り電車の車窓から望むことができ、ぽっかりとあいた入口に金網が張られ

 ていて、少々不気味に感じたのが記憶に残っている。

●後になって、当時あるいは今で生駒トンネルの怪談が人口に膾炙している

 のかどうか、私は大変興味が沸いて本を調べたり知人に尋ねたりしたが、

 ついにそういう怪談があったということは確認できなかった。叔父の創作な

 のかもしれない。

 しかし最近読んだ前出の「鉄道の謎なるほど事典」には関西本線奈良行の

 列車の中で女性が消えてしまう話が紹介されており、地域的に近いことから

 大阪−奈良間を結ぶ鉄道には消える乗客の話が多かったようである。

●幽霊が出るか出ないかは

 別にして、トンネルに対して

 強い恐怖感を感じるのは私

 だけではないと思う。

 昔は地方に行くと道路がまだ

 完備されていなくて、地元の

 住民は鉄道用のトンネルや

 鉄橋を歩いて渡るということ

 が黙認されていた。

 私も撮影旅行の際などに鉄道用のトンネルを歩いた経験が何度かあるが、

 汽車が来るかもしれないとか、コウモリの糞を踏んづけちゃうとかいった

 恐怖感とは別の、なにか本能的な怖さが前身を襲ってきて、つい足早に

 駆け抜けてしまっていたものである。大袈裟に言えばトンネルには人間の

 本能に訴える何かがあるのかもしれない。

●臨死体験などでは「三途の川」や「お花畑」に継いで「トンネルを抜けていく」

 という報告例が多い。考えてみれば人間は母親の産道というトンネルを

 抜けてこの世に生を受けるわけで、生を受ける最初のイメージが一生つき

 まとうのかもしれない。

 沖縄の墓地は「亀甲墓」といって棺に納められた遺体はトンネルのような

 横穴に安置される。このトンネルは母親の胎内をイメージしたもので、

 人間は母親の胎内から生まれ、死んだらまた母親の胎内に帰るという

 信仰にもとづいている。

●次に正体がばれてしまったトンネルの怪談をひとつ。

 広島県の山間部で夜になると突然ドーンという大音響が響き渡る怪異現象

 が起こるので話題になった。

 付近の住民は非常に気味悪がり、専門家が色々調査したが原因がよく

 わからなかった。

 しかしほどなく怪異現象の正体は山陽新幹線のトンネルで電車が通過する

 際に発生する空気の破裂音であることが判明した。

 すなわち高速で新幹線電車がトンネル内を通過する際に、トンネル内の

 空気が急激に圧縮され、圧縮された空気は反対側の出口の方へ向かって

 勢いよく吐き出される。その時にちょうど空気銃のように破裂音が発生する

 のである。これを鉄道関係者は「トンネル・ドン」と呼ぶ。

 トンネル・ドンは逆に蒸気機関車がゆっくり走っていた時代には起こり得な

 かった高速鉄道時代ならではの怪異現象である。

 理屈上は東海道新幹線が開通した時点から起こっていても不思議はない

 はずだが、その当時の新幹線のスピードは今よりかなり遅めだったし、

 東海道新幹線の場合は山陽新幹線に較べてトンネルの数が少なかった

 のでそれほど問題にならなかったのかもしれない。

●空気圧の変化というのは案外馬鹿にならないというか、色々な怪異現象を

 引き起こすものなのである。そのひとつに最近イギリスで起こったひとつの

 ポルター・ガイスト現象がある。

 これはイギリスの片田舎の住宅地で、ある一軒の民家で深夜になると低い

 不気味な音響が家中に響き渡ったかと思うと、ドアがひとりでに開き、家具

 がガタガタと揺れ始めたのである。

 こういった怪異現象は話としてはよく出るのだが、この家の場合はあまりにも

 頻繁に発生するために、実際にその様子がビデオに撮られ、専門家による

 調査も進められた。もちろん地震が発生していたわけでもトリックが仕掛け

 られていたわけでもなかった。

 ポルター・ガイスト(Poltergeist)というのは「騒がしい幽霊」という意味の

 ドイツ語で、騒音を起こすことで人々にその存在を知らしめたい悪霊の仕業

 だとされてきた。

 このような現象は大昔から現代に至るまで世界各地で報告されており、

 しかも極めてパターンが類似しているのが特徴で、日本でも「古今著聞集」

 に類似の現象が記述されている。

 10代の少女がいる家に多く発生するといわれ、その心理的なストレスが

 反復性偶発性念力(Recurrent Spontaneous Psychokinesis、略してRSPK)と

 いう形になって現れるのだとする人もいる。

●但しこの家のポルター・ガイスト

 現象は綿密な調査の結果、悩み

 多き乙女の念力のせいで起こった

 のではないことがわかった。

 それはこの現象がある特定の

 曜日の特定の時間にだけ発生

 していることから、その時間帯に

 なにか関係する出来事がないか

 と調べてみたところ、なんとその

 時間帯は超人気番組の終了時間

 とぴったり一致することに思い

 当たったのである。

 すなわち何十軒かあるその住宅地

 の住民の大多数がその人気番組をテレビにしがみつくように見ている。

 番組終了と共に人々はほっと息をつき、そして一斉にトイレへ駆け込む。

 用が済んだらみんなが一斉に水を流す。住宅一軒一軒は独立しているよう

 に見えても実は下水管で住宅街の全戸が物理的につながっているわけで、

 全戸が一斉に水を流せば突然大量の水が下水管を流れ、その結果急激な

 減圧が発生する。

 その減圧がたまたまくだんの家だけを集中して襲ったためにこの家では

 ポルター・ガイストのような現象に悩まされることになったわけである。

 ヨーロッパの民家は概して気密性が高く、気圧変化の影響を受けやすい

 構造になっていることにも一因があった。

 この家では下水管に簡単な手直しをすることで以後、怪異現象はぴたりと

 おさまった由である。

●脱線した話をトンネルの怪談に戻そう。

 日本のトンネル怪談の中で最も有名なものとしては、鉄道ファンや旅行ファン

 ならだれ知っている常紋トンネルの幽霊が挙げられる。

 常紋トンネルは北海道の石北本線金華−生田原間にある全長506mの

 中規模のトンネルで1916年(大正5年)当時の湧別線開通に先だって掘削

 された。このトンネルは線路が内部でSの字にカーブしていて出口が見え

 にくいため、ちょっと不気味なせいもあってか怪談話が異常なほど多い。

 人魂が出る、トンネル通過中に乗客が消える。

 「雨の日にトンネルを通ると『腹減った、ママくんろ』という声が聞こえる」

 「機関車の前に血だらけの男が立ちはだかったので急停車した。機関士が

 おりて調べると誰もいない。出発しようとするとまた現れる。機関士はとう

 とう発車できず、他の機関士がかわって動かした」

 そういった話は雑誌や怪談本のみならずテレビでも何度か放映されていた

 ので耳にしたことがある方が多いのではないかと思う。

 蒸気機関車時代はこの区間の貨物列車がD51形と9600形による重連

 運転だったので有名になり、数多くのファンが訪れて賑わった。

 私の知人もSLブームの折にここを訪れているが、「幽霊よりも熊の足跡の

 方が怖かった」と当時を述懐しておられる。

●非常に多くの怪談話が常紋

 トンネルに伝えられている背景

 として、このトンネルを掘るため

 に多くの囚人や強制連行された

 労務者(俗にいうタコ)が動員

 され、彼等は満足な食事も与え

 られずに酷寒の中で使役され、

 怨みを残しながら死んでいった

 という歴史的事実がある。

 又、この工事で倒れていった囚人

 や強制労働者達の遺体がトンネル

 の壁面に「人柱」として塗り込め

 られているのだ、という思わず戦慄を覚える噂もある。

 ●それでは大正時代のその当時、厳寒の北海道における鉄道関係の労務者

 がどのくらい酷い扱いを受けていたかについては、当然というかやはり公式的

 な記録にはほとんど記載されていないが、国鉄の「準正史」と呼んで差し支え

 ない川上幸義氏著「新日本鉄道史」(鉄道図書刊行会刊)の中に若干の記述

 が見られる。

 まずは北海道炭礦鉄道の蘭法華トンネル工事にかかわる部分。

労務者の宿舎は木の皮を屋根とし、熊笹を床や壁としたものであり、監督者は

馬で往来した。室蘭駅は今の輪西付近にあって、登別附近の蘭法華ずい道は

全長は短かったが、火山灰土で、湧水がひどく工事は困難であった。

労務者の衛生管理も不充分で、脚気・マラリアが流行した。湿地が多く、

マラリア蚊が棲息していたからである。タコ部屋と称せられる一種の強制労働

もこの頃から鉄道建設の現場で見られるようになった。

 続いて北海道鉄道部十勝線建設にかかわる記述。

労務者は不足し、年間の1/3以上は雪のため仕事にならないので工事はなか

なか進まなかった。開拓当時のように囚人を使うこともできなくなり、"タコ部屋"

による強制労働が行われた。わが国の労働史上、最も恥ずべき存在であるが、

当時はやむを得ないものとされていた。

 「わが国の労働史上、最も恥ずべき存在」という短い言葉がすべてを物語って

 いる。

小池喜考氏著の名作「常紋トンネル」(朝日新聞社刊)にはその「最も恥ず

 べき存在」について非常に詳しく調査・記載されているので是非一読を

 お薦めする。

 明治政府は北海道を開拓するのにあたり、失業士族や屯田兵を送り込むと

 共に、囚人をこれに加えた。囚人を正式に労働力として使うようになったのは、

 1885年(明治18年)の太政官(後の内閣)金子堅太郎書記官の復命書による

 ものである。

 その復命書には「今日のように囚人の数が増えると国庫支出への圧迫が

 著しく、これを労働力として使えば、たとえ苦役に耐えかねて死亡したとして

 も監獄費支出が減るわけで一挙両得」という意味のことがはっきりと書か

 れている。当時の明治政府に「囚人の人権」という概念はまったくなかった。

●こうして多いときは7,000人

 以上の囚人が北海道各地で

 開墾、道路工事、鉄道建設、

 炭鉱・鉱山の採掘、精錬等に

 従事させられたが、多くの

 囚人を死なせた現場の刑務

 所長や教誨師達の反対に

 あって1894年(明治27年)に

 制度上は囚人による外役労働

 は廃止されている。

 そして囚人に代わって登場したのが

 拘禁労働者、俗にいう「タコ」であった。

 拘禁労働者とはいくらかの前借りや借金のかたに送られてきた労働者達で

 あり、「土工部屋」あるいは「タコ部屋」と呼ばれる宿舎に押し込められて

 逃亡できないように外側から鍵がかけられた。彼等は劣悪な労働条件の中

 で酷使され、多くの労務者が疲労と病気で倒れ、あるいはリンチによって

 殺されることもあったといわれている。

●「タコ」とは明らかな差別語である。

 その語源は「常紋トンネル」によればいくつかの説があって、

 @他(内地)から雇われたという「他雇」に由来する。

 A長年の労働で肩にタコができた熟練土工をさす。

 B「蛸」が自分の手足を食って生き伸びるように自分の体を売って生活する

  労働者という意味。

 C常に逃走の機会を狙い逃げ足が早いので「凧」にたとえた。

 などが有力とされているようだが、私見としては「常に糸で縛られている凧」

 という意味もあったのではないかと思う。

 また素人人夫を「水ダコ」、玄人人夫を「マダコ」という呼び方もあった。

 いずれにせよ「タコ」は差別語であり、差別語とは明確に差別意識を含めて

 発せられる言葉のことである。その点、最近マスコミの過剰反応でなんでも

 かんでも差別語としてしまった言葉狩りによる差別語と、本当の差別語とは

 はっきりと区別する必要がある。

 そしてこの差別意識の隠蔽こそが北海道における非人道的な拘禁労働の

 問題を世の中に表面化させることを大きく阻んできたのである。

 大昔に関西漫才で「タコの亡霊」(「凧のぼれ」とひっかけたギャグ)という

 のが流行ったことがあり、その時は何も考えなかったが、ひょっとしたら裏に

 何らかのメッセージが込められていたのではなかろうか、と今になって思う。

●前述の「常紋トンネルの壁に塗り込められた人柱」という噂は、様々な怪談

 本や怪談番組に登場するのだが、「常紋トンネル」にはその件についても

 詳しく記述されている。

 著者の小池喜考氏はかつて学校の教え子であった国鉄職員から常紋

 トンネルの側壁から人骨が発見されたという話を聞き、その目撃者である

 北見保線区勤務の「Mさん」を紹介される。Mさんは1970年(昭和45年)に

 その2年前に発生した十勝沖地震でひび割れが入った常紋トンネルを修理

 するためにその壁面をぶち抜いたところ人の頭蓋骨が出てきた。

 頭蓋骨には右後頭部に1センチ平方くらいの傷あとがあり、後方からスコップ

 などで殴られた上で、ここに生き埋めにされたのではないかと想像された。

 1974年(昭和49年)には著者をはじめ色川大吉教授や報道関係者がMさんの

 案内で第1回目の常紋トンネル現地調査を実施し、発見された場所とその

 頭蓋骨の確認を行っている。

 巷で色々と噂されている常紋トンネルの人柱の話はすべてこの小池喜考氏

 による調査がもとになっているものと思われる。

●ただ問題の本筋からは外れるが、たとえ常紋トンネルから頭蓋骨が発見

 されたのが事実だとしても、私はこの場合に「人柱」という言葉を使うのは

 あまり正確ではないと考える。

 「人柱」は有名な長柄橋を始めとして日本全国各地に根強く残っている

 「生贄」の伝説で、この話にはある一定のパターンがある。すなわち大きな

 橋を架けようと村人が相談しているところ、あるいはいくら橋を架けても

 大水で流されて村人が困っているところにひとりの旅の女性がやってきて、

 「それは人柱をたてればよいのだ」と提案する。この場合の旅人役は母娘

 連れであったり、瞽女であったり様々だが、大抵は女性であるのが特徴だ。

 なるほど、と村人達は納得するが、さて一体だれを人柱にすればよいのか

 という段になって相談の結果、当の母娘連れや瞽女が人柱として埋められ

 てしまうという話。

●「人柱」の話として有名なもののひとつに「松江城の人柱」がある。

 関ヶ原の合戦における戦功により出雲、隠岐24万石を封ぜられた堀尾吉晴

 は、1607年(慶長12年)に松江城築城に着工したが、工事は非常に難航した。

 そのため吉晴は無事完成を願って二の丸広場に老若男女を集めて盆踊り

 をさせ、その中から美声美貌の処女を選んで人柱にした。以来、盆踊りの夜

 になると城が不気味な音をたてて揺らぐので、驚いた吉晴は城の近くでの

 盆踊りを禁じたという。

 そして堀尾氏は人柱の祟りがあったのか、程なく1933年(寛永10年)に断絶、

 替わった京極氏も忠高一代で断絶してしまった。

 実在の人物が登場し、堀尾・京極両氏の断絶という史実を織り交ぜることで

 この話は非常に真実みを帯びてくるのだが、 松江城に人柱が埋められた

 という証拠は何も残ってはいない。

●「生贄」を捧げるかわりに工事の無事完成を神様に約束させる、すなわち

 「生贄」とは神様との一種の等価交換契約である。等価交換である以上、

 工事が大規模であればあるほど、人間の側も高価な代償を差し出さなけれ

 ばならなくなる。ということで人柱には松江城伝説のように処女でかつ一番

 の美女が選ばれるというパターンが多い。神様の交換要求は随分強欲で

 ある。

 このように工事の無事完成を祈るため女性が生きたまま埋められるという

 凄惨な物語は、誰もが一度は耳にしたことがある話で、多分昔は実際に

 行われていたのだろうと考える人が多いとは思うが、あくまで伝説であって

 少なくとも中世以降に実際に人柱が建てられたという歴史的記録はない

 のである。

●「人柱」という非常にインパクトの強い言葉が一人歩きしてしまった感が

 あるが、「人柱」は上述のごとく宗教的・民俗的な用語であって、明治時代

 にトンネルの無事完成を祈願して、当局によって労務者が生き埋めに

 されるということはあり得ないから、常紋トンネルの場合は「リンチ殺人

 事件」及び「死体遺棄」と解釈するべきであろう。もちろんそれがこの事件

 の重大性を薄れさせるという意味ではなく、むしろそういったリンチ殺人が

 20世紀の日本国内でなかば公然と行われていたことの方が重大である。

●ところで人柱を提案した旅の女性が人柱にされてしまうという伝説の思想

 は、形を変えて現代社会にもそのまま受け継がれているのである。

 例えばある会社でA国への事業進出を強く主張する甲社員がいるとする。

 綿密なフィージビリティ・スタディが実施され、はれて進出が決定、では誰が

 A国に行くのか、という段になって選ばれるのは大抵提案した甲社員自身

 である。もちろん本人も希望している場合は全員がハッピーなのだが、

 たとえそうだとしても本来は「提案する人」と「調査する人」と「実施する人」

 はそれぞれの適正をもって別々に決められるべきである。しかし日本では

 なかなかそうはならない。

 「ウチの会社はOA化が大変遅れている! 早急に推進すべきだ」と声を

 上げて主張する。それじゃあ君やれ、ということでOA推進委員長に選出

 されるのは大抵その言い出しっぺ本人である。そういう経験がありませんか?

「常紋トンネル」の中には「常紋トンネルの人柱」の他に「厚岸のタコ人形

 の祟り」の話も紹介されている。

 この世の生き地獄を目のあたりに見た一人のタコの人形師が、その霊を

なぐさめるため、土で男女二体の人形をつくった(仏像ともいわれ、いずれも

身長約1.2メートル)。

 男の人形は当時、半纏を着せ、ツルハシを握る姿で厚岸町の薬屋の店頭に

飾られていた。女の人形はどんな経路でどう動いたか不明であるが、小国

老人の記憶によると、真竜町の小学校付近に住んでいる河原みつおさんが、

宝竜寺に寄進したという。河原さんには三人の子どもがいたが、いわれもなく

次々と死ぬので、二人めの子どもが死んだとき、残りの子どもの身代わりと

供養のため、宝竜寺に寄進したのである。

 この話を宝竜寺ではこう伝えている。

 先代の住職のときに、鉄道につとめる下重某から寄進をうけ、1963(昭和38)

年ごろまで寺の本堂においてあった。人形は大変良いできばえであった。

下重家では1955(昭和30)年ごろまで毎年お参りにきて、そのつど、振り袖を

着せたり化粧してやったりしていたが、その後、釧路に引っ越したとかでお参り

に来なくなった。そこで寺では彼岸やうら盆には、人形に化粧してやって供養

した。

 ところが檀家の人たちから、「本堂の中でお人形がまぼろしのように出歩い

ていた」「参詣人の後を追ってついて来て気味がわるくてお参りに行けない」

との苦情があったので、やむなく寺では1963年に、檀家総代とも相談のうえ、

納棺して荼毘にふした。

●このタコ部屋制度による拘禁

 労働は日露戦争後における

 資本主義経済の急速な発展の

 裏面として益々隆盛を極めたが、

 さすがに大正期にはいると

 それまで放任状態だった警察

 の取り締まりも厳しくなり、やや

 勢いが衰え始めた。

 1925年(大正15年)には内務省令

 による「労働者募集取締令」が

 公布され、1930年(昭和5年)には

 第14回国際労働会議において

 「強制労働廃止案」を採択、その後「北海道土工殖民協会」が設立されて

 労働者に対する酷使や虐待が監視されるようになってきた。

 もっともこうした動きを人道主義の発露であると誤解してはいけない。

 国際的な世論を配慮した上での政府の施策であり、要するに諸外国から

 日本が依然として封建主義的後進国だと思われてはみっともない、という

 気持ちからきたものである。

●しかし結局、タコ部屋制度はそこに需要がある限り、形を変え姿を変えて

 存続し、太平洋戦争直後まで残っていた。

 それが完全に廃絶されたのは1946年(昭和21年) 8月の占領軍軍政部命令、

 いわゆるマッカーサー命令によるものだった。結局、日本人は外圧によらな

 ければ自らはなにも変えることができない、自浄作用が機能しない日本社会

 の特質を露呈したような話である。

 北海道を鉄道で旅するとき、その美しい大自然の景色とは裏腹に、鉄道建設

 には多かれ少なかれ拘禁労働者達の悲劇の歴史がつきまとっていると

 考えると気が重くなる。

 常紋トンネルに出没する彼等の亡霊は、そこを通過する現代人に過去の

 鉄道建設の歴史を忘れさせまいとする血の叫びである。

 しかし人々がそこを通過しているうちはまだいい。現代人の都合によって

 北海道の鉄道は次々と廃止されていく。

 「とてつもない」という言葉は漢字で書くと「途轍もない」で、「途」は道、

 「轍」はわだちを意味する。すなわち道路やレールから外れるようなことが

 「とてつもない」の意味なのである。

 ハンコひとつで北海道の線路をひっぺがしてしまうような「とてつもない」

 ことをする現代人に対して、タコの亡霊達は一体なにを思うのだろうか。


●DMにてご教示いただいたTさん(メールは実名)の鉄道怪談をご紹介

 します。Tさんどうもありがとうございました。

 −私の怖い体験(実話)−

数年前 東北新幹線の工事(私は現場監督)でJRの社員と夜現場に行き、

作業をしていて、作業員が工具を忘れたので、私が取りに行き(新幹線は

数キロ毎に作業用兼、非常扉)歩いていると、後から砂利が崩れる音(ころっ

ころっ)

最初私は鳥などがいたずらしてるのかと思ったが、鳥は夜(深夜)飛ぶはずも

無く、私は夜になり寒くなったので、レールの伸縮が始まったのだと思い、

工具を持って現場に着いた。

その話は誰にも言わず作業をしていると、JRの社員が「ここで若い女性の人

が新幹線に飛び込み自殺をして、体はあったが、頭が発見されなかったんだよ」

そこで、先ほどの話をすると、JRの社員は、「俺も聞いたことがあるんだ、

不思議なんだよ」と、言いました。

JRの社員(元国鉄)は転勤が多く、話題も豊富で、その様な話はたくさん聞き

ました。本当か嘘かは別にして、ちょっと怖い体験でした。

他に、聞いた話では、北海道の函館本線のカムイコタン付近と、石北本線の

峠のトンネルに何かが出るそうです。


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