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其の七へ  

このコーナーでは全国各地
に残っている鉄道に纏わる
民話や奇談・怪談を集めて
みました。
皆様がご存知の民話や奇談
・怪談がありましたら是非
このコーナーへの投稿を
お願いいたします。
  
    

 −目次−

第10話 満員電車の謎

第11話 田中河内介の最期


第10話 満員電車の謎


●バス停でなかなか来ないバスをイライラしながら待っている。やっと来たか

 と思ったら立錐の隙間もない超満員、しかしそのすぐ後に同じ行先のバス

 が2台も3台もつながっており、しかも2台目、3台目はガラガラに空いて

 いる。これを「数珠つなぎ現象」と呼ぶ。

 又、オフィスビルやデパートの中で、2台、3台並んだエレベーターがすべて

 同時に上がったり下がったりしていて、なんという無駄な動きを、と感じる

 のは日常茶飯事である。なんとかならんもんか、と思うがなかなか改善され

 ない。

●この数珠つなぎ現象を今から80年近くも前に、理論的に解明したのが

 物理学者であると共に夏目漱石門下の随筆家だった寺田寅彦氏である。

 その原因については1922年(大正11年)に発表された随筆「電車の混雑に

 就て」の中に詳しく述べられており、またその随筆を読んだことはなくても

 原因は大体ご推察頂けると思う。

 要は大多数の乗客が最初に来た電車に乗ろうとする。従って乗降に時間が

 かかり電車は遅れ始める。遅れ始めると次の駅で待つ乗客の数が増え、

 しかも遅れた電車を苛立ちながら待っているから、先を争って混んだ電車に

 乗ろうとして余計に遅れる。そうこうしている間に後続の空いた電車が次々

 と満員の電車に追いつき数珠つなぎになる。

 理屈は単純だが80年たった現代でもほとんど改善されていない。なぜか?

●これは最初に来た超満員電車に無理して乗ろうとする乗客の衆愚に責任

 を求めるべきものではなく、従って公衆道徳上の問題ではない。

 純粋に物理的な問題である。つまり我々乗客は通常満員の電車に遭遇する

 確率が非常に高いということが最大の原因なのである。

 一定の時間間隔で、すなわちダイヤに基づいて走ろうとする電車も、運行

 中に様々な要因−その多くは乗降時の混雑によるものだが−誤差が

 起こり、電車の運行間隔にちょうど蛇腹のような粗密が発生する。

 その粗密は運行距離が長くなればそれだけ増幅される。

 一方、電車に乗るために駅へ押しかける乗客の流れが一定であると仮定

 した場合、運行間隔が「粗」の時に駅へ到達する乗客数の方が多くなるから、

 大多数の乗客が「密」の先頭に来る「超満員電車」に出会う確率が高いわけ

 である。

●単純な話だが、この点が意外と気づかれていない。

 全く別の例を挙げると、例えば千代田線の松戸駅と柏駅の中間にある南柏

 駅沿線に住むA氏が、買い物に行くにあたって最初に来た電車が上りなら

 松戸へ、下りなら柏へ行こうと考えたとする。そこでクイズだが、A氏は松戸

 と柏とどちらに買い物に行く確率が多くなるか?

 一見、50・50の確率のように感じるが、これは錯覚で、A夫人は圧倒的な

 確率で柏に買い物に行くはめになる。

 千代田線の電車は通常1時間に6本、12分タクトで運行されているが、

 南柏駅では下り電車が上り電車より常に1分早く発車するダイヤになって

 いるから偶然に上り電車が先に来る確率はわずか1分間、12分の1しか

 ないのである。

●先の話に戻ると、物理的

 には大多数の乗客が

 超満員電車に遭遇する

 確率が高いわけだから、

 満員電車に乗らないため

 には物理学に逆らう

 「意志」が必要になる。

 すなわち空いた電車が

 来るまで待つ、ということ

 である。

 そんなわかりきったことを、

 馬鹿にするなと言われて

 しまいそうだが、しかし1分や2分後の電車に乗ったからといって、1分や

 2分を無駄に出来ないほど切羽詰まった生活をしている人は稀である。

 そんなことは頭ではわかっていても「待つ」という行為が、特に混雑する駅

 のホームという不愉快な空間ではたとえ1分、2分でも非常に苦痛に感じる

 のだ。

 「待つ」というのは簡単そうでいて実に難しい。これはなにも生活のテンポ

 が非常に速く早くなった現代人に限ったことではなく、前出の「電車の混雑

 に就て」の中にも

「5分か7分かするとようやく電車が来る。すると大勢の人々は、降りる人を

待つだけの時間さえ惜しむように先を争って乗り込む。あたかも、もうそれ

かぎりで、あとから来る電車は永遠にないかのように争って乗り込むのである」

 と書かれているように、80年も前からある人類普遍の心理である。

 しかしあえて自然に逆らう「意志」を持って空いた電車に乗れば、待ち時間

 よりはるかに長い乗車時間を快適に過ごせるし、全体的な電車の混雑緩和

 にも貢献し、しいては運行間隔の粗密化を防ぐことになる。

 しかし人間の心理はなかなかそうはいかない。

●考えてみればこれは世の中の「ブーム」や「トレンド」と呼ばれる物事すべて

 に当てはまることなのかもしれない。

 土地ブームの時にマイホームを買うのはまさに「超満員電車」に慌てて

 飛び乗ることに他ならぬ。

 景気のいい時期に従業員の大量採用や設備投資をしようとするとコストが

 かかる上に「粗悪品」をつかむことになりかねない。

 鉄道写真趣味にしても同じ。大勢のファンが押しかける「お別れ列車」や

 「イベント列車」を撮ろうとしてもいい写真が撮れるはずがない。私は30年

 近く昔のSLブームの時に痛切にそれを感じた。

 「イベント」という言葉がまさに暗示しているように、ひょっとしたら日本人は

 (いや日本人だけではないかもしれないが)「イベント主義」が非常に強いの

 かもしれない。もともと農耕民族である日本人はみんな一緒に田植えをし、

 稲刈りをしてみんなで一緒に「豊作のお祭り」を祝い合う。つまり常に他人と

 同じことをすることに安心感を見出し、他人と異なることをすることに不安を

 覚える傾向があるのかもしれない。時代が変わってもこの習性は変わらない

 ようだ。

 「電車の混雑に就て」では結論として

「第一に東京市内電車の乗客の大多数は−たとえ無意識とはいえ−自ら

求めて満員電車を選んで乗っている。第二には、そうすることによって満員

電車の満員混雑の程度をますます増幅するように努力している」

 という痛烈なパラドックスでしめくくられている。

 株式で儲けるためには、人が「買い」に走っているときには売りまくり、人が

 「売り」に走ったら「買って買って買いまくれ」とよく言われる。

 誰が言った言葉だったかは忘れてしまったが、

 「人の行く裏に花道あり」


第11話 田中河内介の最期


●これからご紹介する話は

 鉄道とは直接関係ない。

 それをあえてご紹介する

 のは、これが私の人生で

 聞いたり読んだりした数多

 くの怪談の中で、最も怖い

 と感じた話だからだ。

 概して怪談は人を怖がらせて

 やろうとあまりにも演出が効き

 すぎた話はかえって怖くない。

 逆に聞いたり読んだりした当座は特に強烈な印象を受けなかったものが、

 後から思い返してみると全身がゾクゾクしてくるという、そういう話が実は

 一番恐ろしい。

●その話は国文学者の池田彌三郎氏が書かれた「日本の幽霊」(中公文庫刊)

 という書物に、同氏の父君の実体験談として紹介されている。

 大正時代の始め頃、東京の京橋に「画博堂」という書画屋があって、そこの

 3階には同好の志が集まって持ち寄った怪談話をかわるがわる話し合うと

 いうことがよく行われていた。現代でも学生がサークルの夏合宿のなどで

 深夜、部屋の中央に蝋燭を立てたりしてやるのと同じ、それの起源である。

 ある日、その画博堂に見なれない男がやってきて、自分にも話をさせてくれ

 と言う。どんな話かと聞くと、田中河内介の話だという。田中河内介は明治

 維新時の知られざる尊皇志士のひとりである。

その男は、田中河内介が寺田屋事件のあとどうなってしまったかということは

話せばよくないことがその身にふりかかって来ると言われていて、誰もその

話をしない。知っている人はその名前さえ口外しない程だ。そんなわけで、

本当のことを知っている人が、だんだん少なくなってしまって、自分がとうとう

それを知っている最後の人になってしまったから話しておきたいのだ、と言う。

●くだんの田中河内介という人物は、江戸時代末期の1815年(文化12年)に、

 但馬国神美村字香住(現在の兵庫県豊岡市と出石町の中間あたり)の医者

 小森教信の次男として誕生した。幼い頃から意志が強く、剣術に長けて

 いた上に手先が非常に器用で書画を得意とし、文学的才能にも恵まれた。

 更に商才もあったようで、要するに文・芸・武・商にいずれにも優れた

 スーパーマンのような人物だったらしい。

 父親は彼に医者を継がせたかったようだが、本人は儒学を志し、京都で

 学んだ末に1843年(天保14年)に公家の権大納言中山忠能に仕えることに

 なった。そして同じ家臣である田中家の養子になり、田中河内介綏猷を

 名乗った。

●中山忠能家臣時代には幼少の明治天皇のお世話をしていたこともあり、

 そういった環境のもと、自然に田中河内介は尊皇の志を強め、やがて

 それは倒幕思想へと発展していく。

 当時の志士たちはそれぞれに「尊皇」や「攘夷」や「倒幕」の志を持っていた

 が、そういった思想は始めから体系的に一体形成されていたわけではなく、

 特に倒幕思想が明確な形となって現れてくるのはかなり後になってからの

 ことだ。その点、田中河内介は早くから倒幕思想を抱いていた志士のひとり

 だったといえる。

●さて彼は中山忠能に仕えながら、着々と倒幕の義挙の準備を進め、主に

 西国各所に散らばっている尊皇の志士達と緊密な連絡を取り合った。

 尊皇の念篤く、英主との評判が高い島津齊彬を戴く薩摩藩には特に強い

 親近感を抱き、やがて藩下の尊皇思想グループであった精忠組との連携を

 深めていった。

 そして1861年(文久元年)の皇女和宮降嫁によって薩摩藩士を中心とする

 尊皇の志士達の怒りが爆発、島津齊彬の死後、薩摩藩の実権を掌握して

 いた島津久光を擁して王政復古の義挙を起こそうとする機運が高まって

 きた。

 田中河内介はこの動きに乗じて自らもクーデター計画の策定に奔走、翌

 1962年(文久2年)には薩摩藩を脱藩した有馬新七他約100名の志士達が

 京都所司代等を襲撃すべく京都に集結、4月23日いよいよ倒幕ののろしを

 上げることとなった。

●しかし一方で島津久光自身は、その時点では倒幕まで考えていたわけ

 ではなく、あくまで朝廷と幕府の平和的協調をめざしていた。

 従って島津久光の目には自藩藩士を始めとする尊皇の志士達の先走った

 行動は極めて危険なものに映り、クーデター計画を未然に封じ込めるべく

 臣下の奈良原喜八郎らを刺客として派遣し、旅館寺田屋に集結していた

 リーダー格の有馬新七らを上意討ちにしてしまった。これが有名な

 「寺田屋事件」である。

 かくしてクーデター計画が

 未然に終わった直後、

 田中河内介とその嫡子は

 首謀者の一角として薩摩

 藩邸に連行され、小舟で

 鹿児島へ送られることと

 なった。

 長くなったが、以上が

 田中河内介の寺田屋事件直後までのいきさつである。

 怪談はここから始まる。

この田中河内介の最期を、その男は話そうというのだから、皆膝を乗り出して

聞き耳をたてた。(略)

始めは、よした方がいいなどと、懸念してとめる者もいたが、大半の人々が

面白がってうながすので、その男がとび入りで話を始めた。ところで前置きを

言って、いよいよ本題にはいるかと思うと、話は又いつの間にか元へもどって

しまう。河内介の末路を知っている者は、自分一人になってしまったし、それ

にこの文明開化の世の中に、話せば悪いことがあるなどということがある

はずもない。だから今日は思い切って話すから、是非聞いてもらいたい。

というところまで来ると、又いつか始めに返ってしまって、田中河内介の末路

を知っている者は、と話し出す。なかなか本題にはいらない。

 その中に、一座の人が一人立ち、二人立ちしはじめた。別に飽きたから

抜けていくというわけではなくて、用で立ったり、呼ばれたりして立ったのだ

そうだが、私の父も、自宅から電話がかかって下に呼ばれた。下におりた

ついでに帳場で煙草をつけていると、又あとから一人おりて来て、まだ「文明

開花」をやってますぜ、どうかしたんじゃないかと笑っている中に、あわただ

しく人がおりてきた。偶然誰もまわりにいなくなったその部屋で、前の小机に

うつぶせになったまま、死んでしまったというのだ。とうとう、河内介の最期は

その人は話さずじまいであった、というのである。

 この話は、有名な徳川無夢氏も『東京日々』の「同行二人」に実体験談と

 して紹介しているらしい。

●では田中河内介は京都での「寺田屋事件」の後、実際にはどうなったのか。

 彼は鹿児島に護送されるべく嫡子と共に一艘の小舟に乗せられ、4月27日

 に京都を出発する。そして5月1日の深夜、播磨国垂水沖にさしかかった

 ところで、あらかじめ彼等を殺害するよう指示を受けていた警護の薩摩藩士

 達によって無惨にも親子共々船上で刺殺されたのであった。

 その時、河内介は自ら襟を広げ、胸を開き、「疾く疾く」と泰然としていたと

 いう。

 二人の遺骸はそのまま海中に放擲された。

 そしてその日から田中河内介に纏わる数々の奇談・怪談が薩摩藩の近辺

 を中心として発生することになるのである。

●その8ヶ月後、1963年(文久3年) 1月24日の午前4時頃に垂水沖のちょうど

 田中河内介謀殺現場付近を通りかかった薩摩藩の後用船「永平丸」は、

 俗に「積立」と呼ばれる暗礁に乗り上げて沈没した。薩摩藩では汽船を

 雇って船体の引き揚げを試みたが失敗、仕方なく水雷で爆破して帰った。

 その後、ここに赤色鉄製の浮標(ブイ)が設置されたが、波浪で錨が抜き

 取られてしまった。明治中期になって石造りの灯台が設けられたが、それも

 数年を経ずして倒壊した。

 付近の人々は河内介の祟りと恐れて、この海上を通過する際は一言も発し

 ないようになった。

●田中河内介謀殺指令

 を受けた警護の薩摩

 藩士達の間で、だれが

 河内介を殺るかという

 ことになったが、誰もが

 尻込みするのでクジ引き

 で決めること

 になり、柴山彌八という

 人物が当たった。

 だが彌八は弟の彌吉に

 「俺の代わりにやってくれ」と

 逃げてしまった。

 柴山彌吉は後に発狂し、時々発作を起こした際に河内介の首を刎ねる

 身振りをした。

 後に佐土原藩士の富田通倫が彌吉の見舞いに行って、たまたま河内介の

 最期に話が及ぶと、彼はたちまち発作を起こし、薄気味悪く笑ったという。

●では田中河内介謀殺を指示した人物が誰かと言うことになるが、これには

 諸説がある。

 まずは薩摩藩当主の島津久光の名が挙げられるが、そのお側に仕えて

 いた市来二郎という人の話によると、久光公は寺田屋事件発生の際に、

 「河内介一行は鹿児島に遣わし、厚く保護せよ」と命じていたという。

 そして後に船上にて殺害されたとの事実を知り、「それは気の毒なことを

 した。遺憾千万である」と語った。薩摩藩としては自藩士でもない河内介

 父子まで抹殺する必要はなかったはずで、島津久光の言葉は本心だったと

 思われる。

 次に噂されたのは大久保利通である。明治天皇が田中河内介を思い出さ

 れて側近の者に、田中河内介はどうなったかと、ご下問になった時、黒田

 清隆が大久保利通に向かって、「大久保、お前知っているだろう」と嫌がら

 せを言ったという話がある。

 後に大久保利通が紀尾井坂で暗殺されたのもその祟りであると噂されたり

 した。ただ大久保利通にしても、河内介をあえて亡き者にしなければなら

 ないような特別な利害関係は見当たらない。冷徹な政治家としての資質

 から旧薩摩藩士の間でも大久保利通を嫌う者は多かったから、「あいつが

 指示したんじゃないのか」という感じで噂されていたのではなかろうか。

●もうひとつの説はやや信憑性がある。

 岡山県知事を勤めた高橋五六男爵の話で、田中河内介謀殺を指示したと

 いう彼の友人(大体の推察はつくが、ここでは伏せる)の枕元に毎晩、

 河内介の亡霊が現れるためにとうとう発狂し、時々抜刀して柱や鴨居に

 斬りつけたりしていた。

 その母親が心配して男爵に相談、それなら邸内に祠を建てて手厚く祀る

 ようにしたらと答え、その通りにしたら亡霊は現れなくなったという話。

 いずれにせよ薩摩藩にとっては、どうしても抹殺しなければならないという

 ほどの強い理由のない人物を殺してしまった、しかもその人物は幼少の

 明治天皇のお世話をした人物だったということで、余計なことをしてしまった

 と随分後悔の念に悩まされたのではないだろうか。

 河内介の胸中を察してみても、敵同士正々堂々と戦って死ぬならまだしも、

 同志と信じていた薩摩藩に裏切られ、義挙を妨害された上で殺されたの

 では魂も浮かばれまい、と周囲の誰もが感じ、不憫に思ったことであろう。

 その結果、明治初期に政府の要職を占めていた旧薩摩藩出身者の中では

 田中河内介に関する話が一切タブーとされていたのではないだろうか。

●前出の池田彌三郎氏著「日本の幽霊」の中では、徳川夢声氏の直話として

 後日談が述べられている。

徳川さんが三島ロケーションに行った折、どういうことからか、雑談をしていた

一座の話が田中河内介のことになった。田中河内介という名が誰かの口から

もれた途端に、ロケーション・ハンターが奇声を発してそとにとび出していって、

やがて頭からずぶぬれになって帰って来た。

どうしたんだというと、何だか急に頭がクラクラとしたので、井戸端に行って

水を浴びて来たのだということだった。

 奇妙な話は更に続く。

その翌日、夢声さんは東京へ帰るために一人で御殿場へ出た。御殿場線で

松田へ出て、小田急で帰るつもりであった。時間があるので御殿場の町を

歩いて、本屋があったのでブラリとはいった。本屋といっても、店先の半分は

おもちゃなど並べてある小さな店だ。ひょいと本棚を見上げると、目の前に

『田中河内介』という標題の本が四冊ズラリと並んでいた。夢声さんはその

一冊を買い求めた。田中河内介顕彰会という会の編纂で、発行者は「大久保

なにがし」。つまり河内介を死に追いやったと想像されている側の人の、慰霊

の志から出たものだろうと思われる。

●実は私もひょんなことからこれと同じであろうと思われる本を所有している。

 「であろう」と断った意味は、標題の「田中河内介」は同じだが、発行者は

 「大久保なにがし」ではなく、「鈴木なにがし」であり、完全に同じ書籍である

 と言い切れないからである。ちなみに発行所は「河州公顯頌会」とあり

 河州公は河内介のことだから、上の「田中河内介顕彰会」とほぼ同意で

 ある。

 「田中河内介」という同名の書籍が二册も存在したとは考えにくいし、現に

 インターネットで古書検索をしても、私が所有している書籍以外に

 「田中河内介」という名の本は見あたらなかった。

御殿場線に乗って、その本を読み続け、松田で予定通り小田急に乗りかえ、

なお読んで行くと、船中で首を打たれ、海中に捨てられた河内介父子の死骸

が小豆島の海岸に流れついた。島の人がこれを手厚く葬って祀った。それが

座摩神社で、本にはそのお社の写真がのせてあった。そこまで読んで来た時、

電車がガタンと止まったので、ヒョイと目をあげてそとを見ると、暮れかかった

うすらあかりの中に、駅名がはっきりと読めた。その駅が小田急の「座間」で

あった、というのである。

●河内介父子の遺骸が小豆島に流れ着いたというのは事実である。船中で

 謀殺された翌日5月2日、小豆島北東部福田村の遠干浜に漂着し、村人に

 よってその場に埋葬された。墓碑は建てられなかったが、目印に小さな

 松の木が植えられ、後に立派な大木に成長した。

 1892年(明治25年)になって村人によって小さな墓碑が建てられ、更に1895年

 (明治28年)に付近の山腹に哀悼の碑が建立された。また福田地区にある

 雲海寺では毎年、河内介父子遭難の5月1日に弔祭が行われている。

話におひれがついていって、ますます気味悪くなって行くのが、こうした話の

常だが、この話を数年前に夢声さんから聞いていた私は、このことを書くに

ついて、夢声さんに「田中河内介」の借用を申し入れた。夢声さんは持って

こられなかった。二册うちにあるのだが見当たらない、と言われる。

前にも、原稿を書く必要があって探したがその時にはどうしても見当たらなか

った。そしてすんでしまってからヒョイと見ると、チャンとあった、と言われるの

である。

●怪談の会場となったくだんの

 京橋「画博堂」についても

 後日談が述べられている。

 主人夫婦はスペイン風邪が

 流行した折に相次いで亡く

 なってしまった。

 初七日の晩に、例の怪談の

 会の人々も集まっていて先日

 の出来事の話などをしていると、

 夫婦のあとに残された5つばかりの

 女の子が出てきたので、

 「お父さんもお母さんも急にいなくなってしまって、寂しいだろうね」と慰める

 と、その子がかぶりをふって、「お父さんもお母さんも、毎晩来てくれるから、

 ちっとも寂しくないの」と答えたという。

●以上で「田中河内介」に纏わる一連の怪談話は終わる。

 ところでこの話のモチーフとなっているのは「あまりに恐ろしい話なので、

 人に話してはならない。話すときっと割ることが起こる」というもので、これで

 すぐに思い浮かぶのが、小松左京氏のショート・ショートの中でも紹介されて、

 非常に有名になった「牛の首」の話である。

 作中主人公の周囲の友人達が皆、「牛の首」について、「怪談として非常に

 よくできている」「あんな恐ろしい話は聞いたことがない」と噂し合うので、

 なおさら興味がわき、友人達に教えてくれとせがむのだが、「話せばきっと

 悪いことが起こる」と言って誰も教えてくれない。主人公は話の内容を知る

 ことに躍起となり、ついに話の出所である老ミステリー作家のもとを訪れる

 が、話の内容を聞かせてくれ、と頼むと老作家は恐怖に顔をゆがませ、

 「今日は用事があるから、明日の午後来てくれ」と言う。

 翌日行ってみたら、老作家はもうそこにはいなかった、というもの。

●この「牛の首」の話は、「牛女」という伝説をルーツとしており、「牛女」は

 またの名を「くだん」ともいう。なぜ「くだん」と呼ぶのかというと、これは

 「人」と「牛」を合わせた漢字の洒落である。

 この伝説は江戸時代に丹波国あたりで発生し、西宮や芦屋などの阪神

 地区では類似の話が時と場所を変えて今でも残っているらしい。

 今から10年ほど前に子供達の間で全国的に広まった「人面犬」や「人面魚」

 の話も、この「くだん」がルーツとなっていると私は考えている。

 「くだん」は牛の体に人の顔をもって生まれ、これが生まれると戦争や天変

 地異など必ずよくないことが起こる。生まれつきよくしゃべるが、生まれて

 から3日間で死ぬ、しかし死ぬ直前に何かを予言し、その厄災を避ける

 方法を教えてくれるというものである。

●このよくしゃべるが早く死ぬ、という点が重要なのだ。すなわち世間に

 おいて「本当のこと」をズケズケ言う人は長くは生きられない(物理的に

 死ぬことだけを意味しているのではない)ということを「くだん」という化け

 物の姿を借りて示唆しているのではないだろうか。

 「くだん」は太平洋戦争中の神戸地区でたくさん誕生し、それらはみな

 「日本は戦争に負ける」という予言を残して死んでいったのであった。

 この伝説は1944年(昭和19年)に警保局保安課でも「治安上相当注意を

 要する流言飛語」の中にもリストアップされている。

●考えてみれば、田中河内介父子が遭難した垂水沖は丹波や播磨国の

 すぐ近所であり、その近辺では明治以降、さまざまな伝説や怪談が語られ

 続けてきたであろうから、それらの話と「くだん伝説」とが融合し、あるいは

 形を変えて現代にまで脈々と生き続けていると言えるのかもしれない。


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