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このコーナーでは全国各地
に残っている鉄道に纏わる
民話や奇談・怪談を集めて
みました。
皆様がご存知の民話や奇談
・怪談がありましたら是非
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 −目次−

第4話 食堂車神話

第5話 常磐線「北小金」の怪


第4話 食堂車神話


●これは「民話」ではなく、「神話」の話。

 このサイトの中でも度々書いているが、私は幼い頃から食堂車に

対して異常なまでの憧れを抱いて

いた。

派生的に食堂車のウェイトレスさん

にも憧れたが、それは憧れの性格

が違うので、ちょっと置くとして、

大阪駅などで長距離の急行や特急

 列車の中間に連結されている

 食堂車に出会うと、理由もなく興奮したものだ。

●従って一人で旅行が出来る歳になると、出来るだけ食堂車が連結されて

 いる列車を選んだし、食事は食堂車へ足を運んだ。

 実際に利用してみると食堂車の食事は「遅い・高い・不味い」と見事に3拍子

 揃っていた。食通なら決してこんなところで食事はとらないだろう、と後悔する

 のだが、次回には性懲りもなくまた足を運んでしまう。

●ここまで食堂車に思い入れるのは私だけだろうかと、長年不安に感じてい

 たのだが、最近インターネットを通じて知己になった鉄道ファンの方とお会い

 した際に、その方が「いや、多分みんなそうですよ」とおっしゃったので、

 そうかやはり自分だけではなかったと内心ほっとした。

 その方は鉄道模型の編成を揃えるのに、お金が足りない時は、まず食堂車

 から買うそうである。

●食堂車に異常に憧れたのが自分だけではないと知ると、勝手なもので、

 鉄道ファンは全員、食堂車に憧れるのではないかと思うようになり、いや、

 ひょっとすると世の中のすべての人が食堂車に憧れているんじゃないかと、

 巷間には一種の「食堂車神話」みたいなものがあるのではないか、とどん

 どん拡大解釈するようになった。

●食堂車が日本の鉄道に登場したのは、1899年(明治32年) 5月22日で、最初

 に導入したのは山陽鉄道(現在のJR山陽本線)である。

 官設鉄道である鉄道作業局が食堂車を導入したのは、1901年(明治34年)

 12月15日で、新橋−神戸間の急行列車にシ1−4が連結された。山陽鉄道

 より2年7ヶ月も遅れた理由は、箱根と逢坂山の連続勾配区間において

 牽引定数の関係で食堂車を連結するゆとりがなかったためで、結局、この

 区間は連結しないという変則的な形でスタートした。

●当初は、山陽鉄道、鉄道作業局とも利用客は1・2等車の乗客に限って

 いたといわれる。ただこれは正式な規則となっていたわけではなく、あくまで

 内規だったようである。当時山陽鉄道本社から現場に対して、どうしても

 3等乗客で食堂車利用を希望する者があれば、給仕が料理をそっと客室

 まで運べ、あるいは風体、動作が見苦しき客でなければ、食堂車がすいて

 いる時間に案内しろ、というような指示が出されている。

 ただ、いずれにせよ庶民にとっては高嶺の花だった。

●食堂車は太平洋戦争中の優等列車廃止政策により全廃され、戦後の

 1949年(昭和24年)に特急列車の復活(特急「平和」)と共に復活、4ヶ月後に

 「つばめ」に改称したが、民主主義の戦後になっても所詮食堂車は高嶺の

 花であることに変わりなかった。

 それは鉄道ファンにとっても同じで、私の手元に1954年(昭和29年)銀河クラブ

 発行による「Railway Photography」というガリ版刷りの会報があるが、特急

 「はと」の食堂車と展望車を撮影された安土雄次郎という方が、その写真の

 説明書きに

 「アアー 日本の国にもあんな

 立派な御車があったのか。

 死ぬまでに何億人の中の何人が

 乗る車かしらん。駅や写真では

 いつも御目にぶらさがるがね」

 と溜息まじりに書かれている。

 一方、当時、特急「はと」に乗車

 して食堂車を利用された作家の

 内田百闔≠ノよると、列車の揺れ

 はひどいし、料理はスープも出ない、

 車内も何となくむさくるしい、と不満

 を書かれているので「高い・遅い・不味い」の3拍子は、既にこの頃から

 揃っていたと思われる。(御馳走帖)

●もっとも日本の高度経済成長に伴って特急や急行といった優等列車の数は

 どんどん増え、それに伴って食堂車も増えたので、庶民にとっても以前ほど

 特別な存在ではなくなってきた。

 特に特急列車については、およそ「特別急行」と名がつく限りは必ず食堂車

 が連結されていなければならない、と国鉄側も利用客側も考えていたようで、

 1960年代から1970年代初めにかけてはほとんどすべての特急と、代表的な

 急行に食堂車が連結されていたと言っていいほどの盛況ぶりを呈した。

 例えば大阪と北陸地方各都市を結ぶ特急雷鳥の場合、1972年(昭和47年)の

 時刻表を見ると、1号から8号まで片道8本のすべてに食堂車が連結され

 営業している。

 中には大阪12:30発、富山16:40着の雷鳥5号のようにあまり食事時間

 帯と関係ない列車でも食堂車は営業していたから、これはもう「特急」という

 メンツで営業していたとしか思えない。

●メンツにこだわるのはいいが、「高い・遅い・不味い」の方は一向に解決され

 なかったので利用客は年々減る一方、利用客が少なく儲からないので食堂

 車側のサービスも悪くなるという悪循環、また1972年(昭和47年)に発生した

 北陸トンネル列車火災事故の火元が食堂車だったことも災いして、以後

 食堂車は全国の優等列車から急速に姿を消していった。

●私は東京−九州間ブルートレインから食堂車が廃止される前の年に、久し

 ぶりに特急「はやぶさ」の食堂車を利用したが、ちょうど食事時間帯である

 にもかかわらず利用客はまばら、車内も何となく薄汚く、メニューから料理を

 選んでも「今日は、 それは出来ません」といった具合で、食堂車に来たこと

 をとても後悔した。これでは長くは続かないだろうと思っていたら翌年廃止

 されてしまった。

 私が幼い頃、あれほどまで憧れた在来線食堂車最後の思い出は、大変

 つまらないものに終わってしまったのである。

 時代の移り変わりとはいえ、かつての優等列車の象徴的存在であった

 食堂車のイメージは本当に「神話時代」のものとなってしまった。


第5話 常磐本線「北小金」の怪


「碓氷峠の幽霊娘」の項でご

 紹介した「JRのこわい話」

 中に、常磐線北小金駅に出る

 幽霊の話が掲載されている。

 内容は、常磐線の終電車が

 北小金駅に到着した際、下車

 した乗客の1人がホームの

 跨線橋を登りきったところで

 スーっと消えてしまうのを別の

 何人もの乗客が目撃したという、比較的他愛のない話だが、怪談はむしろ

 こういうシンプルな話の方が妙に現実味があって恐怖感を感じるものである。

●そして私はこの怪談を読んで、やっぱりね、と感じるところがあった。

 やっぱりね、と感じた理由はふたつあって、ひとつは私自身がまさにこの

 近所に住んでいて、このあたりの地理をよく知っていることと、もうひとつは、

 北小金駅周辺はかつての古戦場址であり、古戦場址地につきものの怪談が

 ごまんと伝えられているからだ。

●常磐線北小金駅と流山電鉄小金城趾駅とにはさまれた小高い丘陵地帯に

 小金大谷口城と呼ばれる城跡が残っており、ここは戦国時代には千葉氏の

 一族である高城氏の居城だった。小金大谷口城址は1537年(天文6年)に

 築城され、戦国時代の城郭としては比較的大規模なものである。

●さて話は少しさかのぼるが、1521年(大永元年)、当時安房国を支配して

 いた戦国大名の里見氏と上総国を支配していた武田氏の連合軍が、関東

 一帯の制覇を目指して下総国に攻め込み、小金の高城氏との間で合戦と

 なった。場所は常磐線北小金駅の東方500mのところにある行人台と

 呼ばれる台地である。

 この合戦で敵味方とも多数の死傷者を出したため、昔は幽霊話が絶えな

 かったようで、行人台古戦場のわずか西方、今は北小金駅東口の駅前通り

 に残っている東漸寺というお寺に合戦当時住職だった呈誉という人の話が、

 大衆文学研究会千葉支部編著による「房総の不思議な話、珍しい話」

 (崙書房刊)の中に紹介されている。

寺の近くに戦場があって、雨雲が低くたれこめたような夜になると、なにか

人の泣き叫ぶような声がきこえてくるといわれた。村人たちはこのことを

おそれて、たそがれになるとだれも外へ出なかったので、往来がぴたりと

とまってしまった。

呈誉はそんな噂をきくと、あわれに思い、その地にいってみた。人々のいう

とおり、なにやら人の泣き叫ぶ声がきこえてきた。

呈誉は、これは合戦で討死にした兵士たちの霊がさまよっているせいだ、

と思い、大声で念仏を唱えたうえ、

 鬨の声敵も味方も夢さめて 跡をば野辺の秋風ぞ吹く

という和歌を詠んだ。すると、不思議に泣き声はきこえなくなった、という。

●小金大谷城には周囲にいくつか

 の支城があって、それらが本城を

 取り囲むようにして防衛線を張り

 めぐらしていた。その中のひとつ

 として流山市内のはずれに前ヶ崎

 址城があって、城というよりは砦と

 いった程度の規模だが、ここでは

 最近まで古武士の亡霊が出没した

 らしい。

ところで、この城址の大手門あとから、

幽霊が出る、といいだした人が、流山

市内にいた。

その人は、深夜、会社からの帰りがけ、まったく同じ場所で、四回も同じよう

な幽霊を見たいう。いずれも、古武士三人が、草むらから湧き出て、その人

に後ろ姿を見せながら、六,七メートル歩いて、またどこへともなく消えていく、

ということである。また、同じ場所で、幽界からきこえてくるような笛の音を耳

にした人もいる。

このことは、昭和五十一年十月、TBSが放映しているので、ごらんになった

読者もあった、と思う。

(大衆文学研究会千葉支部編著「房総の不思議な話、珍しい話」 崙書房刊)

●前ヶ崎城主だった高城胤則は、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻め

 の際に北条氏側についたが、最後は豊臣軍に対して無血開城しているので、

 このあたりで合戦は行われていない。従って三人の古武士は恨めしくて

 出てきたというよりは、くだんの会社員に何かを伝えたかったのではある

 まいか。例えばこの会社員が三人の古武士の子孫かなにかで、前ヶ崎城

 開城の際に城の財宝を密かに埋めた箇所を知らせたかったのではないか。

 だとすれば会社員は、古武士がすうっと消えたあたりを掘りかえしてみる

 べきであった。惜しい。

 これは私が勝手に創作した「尾ヒレ」である。

●前ヶ崎城址は私が柏市内に引っ越した10数年前までは、ここだけ都市化

 に取り残されたような水田地帯の中にあって、うっそうとした雑木林になって

 おり、夜は特に淋しく、こういった怪談話が出てきてもおかしくないような

 雰囲気の場所だった。現在ではすっかり整備されてきれいな公園になって

 いる。

 私は時々前ヶ崎城址の前の道路を自動車で通る。この道路は城址を過ぎ

 たあたりで大きく右へカーブしているのだが、一瞬道路がまっすぐであるか

 のような錯覚をおこさせるため、何度か水田に突っ込みそうになったことが

 ある。

●小金大谷城の別の支城である根木内城は、国道6号線(水戸街道)の

 根木内交差点あたりに位置し、現在では跡形もなくなっている。

 この根木内交差点はなぜか交通事故が多いことで有名。確かに交通量が

 多く道路は勾配になっているが、特に見通しが悪いというわけではない。

 国道6号線は、根木内交差点を柏方面に向かって通り過ぎると、大きな

 S字カーブにさしかかる。以前、このカーブの左脇に1軒のコンビニエンス・

 ストアがあったが、数年前に深夜、乗用車がいきなりこのコンビニに突っ

 込んで、店が大破する事故があった。

 結局、このコンビニは廃業してしまったが、ここも特に見通しが悪いという

 わけではない、普通のS字カーブである。

●というわけで、常磐線

 北小金駅周辺はとにかく

 怪談話の多い地域では

 ある。

 ミステリー・スポットと

 でもいうのだろうか。

 怪談話自体は事実では

 ないとしても、怪談話が

 偏在するというのは事実

 である。

 怪談話が多い地域は、我々のご先祖が何かの理由で子孫に対して、何らか

 の理由でここに近づいてはいけないというメッセージを送っているのだという

 考え方もある。いずれにしてもその土地に現在住んでいる人々にとっては、

 こういう怪談話をされることは迷惑以外の何物でもないかもしれない。

 ただ逆に民話や怪談話が多く残っている地域は、当然、大昔から多くの人

 がそこに住んできたという証拠であって、昔から人が住んでいる地域という

 のはむしろ住環境として適しているのだという見方もある。私個人としては

 後者の考え方に賛成する。

 民話や怪談話がまったくない無味乾燥の土地、例えば海を埋め立てて

 造った土地の上には絶対に住みたいと思わないのである。


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