其の一

其の二へ 其の三へ 其の四へ 其の五へ 其の六へ

其の七へ

このコーナーでは全国各地

に残っている鉄道に纏わる

民話や奇談・怪談を集めて

みました。

皆様がご存知の民話や奇談

・怪談がありましたら是非

このコーナーへの投稿を

お願いいたします。

 

 

-−目次−

プロローグ

第1話 常磐線が流山を通らないわけ

第2話 踏切番お栄の死

第3話 碓氷峠の幽霊娘


 プロローグ


●東南アジアを中心として広くアジア地域一帯に根づいている民間信仰の

 ひとつに「客人(まれびと)信仰」というのがある。すなわち遠くから訪れる旅人

 を神の使者もしくは神そのものと崇める考え方である。神の使者または神

 そのものとしてみなされた旅人は手厚いもてなしを受ける。東南アジアの

 辺境地を旅行したことのある人は村人から大歓待を受けて感動した経験を

 きっとお持ちのはずだ。

●「客人信仰」はもちろん日本にもあった。(今もあるというべきか)

 郵便・電話等の通信手段や新聞・テレビ等のマスメディアが発生する以前

 の情報伝達手段は人の口から口への伝言に限られており、ましてや昔の

 人々はめったに自分が住む村から出る機会がなかったから、遠くからやって

 来た旅人の話が未知の土地の出来事を知る唯一の情報源であったに違い

 ない。

●遠くからやって来る旅人、すなわちヨソモノは、村人に様々な幸福をもたら

 したであろう。

 その村にはなかった便利な道具や美味しい食材、美しい着物、あるいは今

 まで治療を諦めていた難病の特効薬。しかし同時に旅人は不幸をももたら

 したかもしれない。とんでもない偽物を売りつけられたり、その村には

 なかった疫病を持ち込まれたり、旅人は村人にとってある時は神様であり、

 あるときは魔物であった。そういう意味で旅人は村人から尊敬と畏怖が入り

 交じった感情で迎えられていたのだろう。

 すなわち村人にとっては旅人そのものが良い意味でも悪い意味でも

 「What's New」だったわけであり、そういった経験と感情の積み重ねから旅人

 を何か特別な存在とみなす考え方が生まれ、それが「客人信仰」につな

 がっていったと考えられる。

●江戸時代までの旅人は

 街道をてくてく歩いて

 やって来たが、明治以降に

 なると汽車に乗ってやって

 来るようになった。

 遠来の旅人を最初に迎え

 入れる場所が鉄道駅であり、

 駅及びその周辺は特別な

 空間とみなされるようになった。

 又、村人にとっても鉄道駅は、

 そこへ行って汽車に飛び乗れば未知の世界へ旅立つことが出来る、大袈裟

 に言えば、駅の改札口は異次元空間へワープする扉であり、そこで切符を

 切る鉄道職員はその扉を守る番人のような存在であったわけだ。

 (なんでそんなことが言い切れるのかというと、私自身が幼少時代、ちょっと

 した事情があってほとんど旅行に行けなかったのだが、鉄道駅に対して

 常にそういう感情を持っていたからだ)

●人々にとって鉄道そのものが「What's New」であった時代は、当然のこと

 ながら鉄道に纏わる民話や奇談、怪談の類に至る様々な話が語り伝え

 られてきた。

 やがてマスメディアが発達し、又、交通機関も自動車に主役の座を奪われ、

 鉄道が人々にとって必ずしも「What's New」ではなくなってくると共に、それら

 の多くが再び忘却のかなたにおしやられようとしている。

 しかしかって語られた民話や奇談・怪談はそのまま忘れ去られてしまうには

 あまりにも惜しい興味深い話が少なくない。

 そういった話を少しでも収集・保存・紹介できればと思う次第である。


第1話 常磐線が流山を通らないわけ


●常磐線は申すまでもなく上野と仙台を結ぶ東日本の重要幹線のひとつで

 ある。

 常磐線の列車は上野駅から出発するが、起点は正確には日暮里である。

 日暮里から分岐した常磐線の線路は関東平野を北東に向かって伸び、

 北千住、綾瀬、金町を経由して江戸川を渡った後、ほぼ真北に進路を

 変えて松戸に至る。その後、馬橋を経て新松戸を過ぎたあたりで再び線路

 は北東にカーブし柏に到達する。このため流山の中心街は常磐線のコース

 から大きく外れる格好になっている。

●常磐線が開通した明治中期において柏一帯は、まだ開拓が始まったばかり

 の原野に近かった。一方、流山は江戸川の水運と共に既に江戸時代から

 栄えていた商都である。幕末に新選組の近藤勇が最後に布陣した陣屋跡

 も史跡として残っている。

 普通に考えれば原野の柏よりも既に都市を形成している流山に常磐線を

 通すべきである。しかし流山に常磐線は通らなかった。

 このため流山では常磐線が通らなかった理由は、当時の流山の住民の

 考え方が非常に保守的で、線路の敷設に猛反対したため、やむを得ず

 流山を迂回して柏を通ったのだと語られている。

●流山に限らず明治の鉄道開業当時、大きな町でありながら鉄道敷設に

 猛反対したために鉄道のコースから外れてしまい、その後、町自体がさび

 れてしまったという話は、「鉄道忌避伝説」と呼ばれ、全国にごまんと存在

 する。明治の人々が鉄道敷設に反対した理由としては以下のようなものが

 伝えられている。

 1.蒸気機関車が吐き出す火の粉で火事になる。

 2.鶏が汽笛に驚いて卵を産まなくなる。

 3.蒸気機関車の煙で田圃や畑が痛む。

 4.駕籠より早い乗り物が通っては商売が上がったりになると駕籠かき

   業者が反対。

 5.疫病がはやる。

白土貞夫氏著「千葉の鉄道一世紀

 (崙書房刊)\2,500」には千葉県

 の鉄道発達の歴史が貴重な

 古写真と共に書かれていて

 大変興味深いが、同書の中で

 白土貞夫氏はこの鉄道忌避伝説

 の整合性を否定されている。

 こういうのはいずれも後世になって作られた話であって、実際に当時地域

 住民が鉄道敷設に反対したという証拠はほとんど残っていないそうである。

 確かに鉄道が通らなかったためにさびれてしまった町に現在住んでいる

 住民の気持ちとしては、ご先祖様の先見の明の無さを嘆く気持ちと共に、

 何か鉄道を通すべきではないと考えた強烈な理由があったに違いないと

 思いたいであろう。1-3の理由はいかにも後から考えた理由っぽい。

 当時の人々がそれほど頑迷であったとも無知であったとも思えない。

 むしろ明治の日本人は今以上に「新しもの好き」だったと思うのである。

●ここで常磐線が敷設された最大の目的について改めて考えてみる必要が

 ある。

 常磐線は日本鉄道によって計画、1896年(明治29年)に田端−平間が開通

 しているが、鉄道建設の最大の目的は、当時の富国策の一環として常盤

 炭田の石炭を京浜地区に円滑・迅速に輸送するための貨物輸送にあった

 のである。

 つまり旅客輸送は二の次であり、流山を通るか通らないかはどうでもいい

 ことだったのではないかと推測する。従って松戸から北上して流山を経由

 するよりも、新松戸あたりから北東に進路を変え、柏、我孫子、取手を経由

 して行く現在のルートが距離的に最短コースであり、日本鉄道としては

 迷わずこのルートを選んだのではないかと思うのだ。

●100年たった今、結果として柏市は東京都心から40分圏内の近郊都市

 として大発展を遂げ、一方、流山は、よく言えば昔の面影をよく残した落ち

 着いた町となっている。当時、積極的な鉄道忌避運動はなかったとしても、

 積極的な誘致努力が足りなかったとすれば、それは相対的には「鉄道忌避」

 だったという考え方も成り立つかもしれない。

 上に挙げられた忌避理由のうち、最後の疫病については、私は科学的根拠

 のある理由なのではないかと考える。エピローグの項でも述べた通り、鉄道

 駅からはおびただしい数の旅人、すなわちヨソモノが流れ込んでくるのを

 防ぐことは出来ない。その土地の人々に免疫がない疫病がそこから広がって

 いくことは充分考えられる。

 鉄道が交通機関の主役だった時代、鉄道駅は良くも悪くも異次元世界とを

 つなぐ秘密の扉だったのであり、人々は憧憬と畏怖の念をもってその扉を

 眺めていたに違いない。


第2話 踏切番お栄の死


●「踏切番」という言葉は死語になってしまったが、以前は幹線道路の踏切

 には必ず踏切番(警手)が配置されていて、列車が近づくと手動で遮断器を

 下げ、安全を確認しながら白旗を振って列車を通していた。

 比較的単純作業ゆえか早くから自動化が進み、今ではほとんどの踏切

 から踏切番は姿を消している。

●鉄道は長い歴史の中で様々な安全対策が施され、人為的ミスの発生を

 防ぐためのシステムが確立され、極めて安全な乗り物になっている。

 ただ私の個人的な印象としては、自動車の交通量の差もあるかもしれない

 が、踏切事故だけは自動化された後の方が発生件数が増えているような

 気がしてならない。やはり人の手を介しないで、機械だけで守る安全には

 まだ一定の限界があるのだろうか。

 昔の踏切番は文字通り命を張って踏切を守ったという話が数多く残されて

 いる。佐々木冨泰氏・網谷りょういち氏共著「続・事故の鉄道史(日本

 経済評論社刊)\2,800」の中に「踏切番哀話」というタイトルで 昔の踏切番

 に係わる様々なエピソードが書かれていて大変面白い。

 その中でもひときわ胸を打つのが、明治時代に福岡県で起こったひとつの

 踏切事故であり、その話をここで要約・引用させていただきたい。

明治38年、九州鉄道本線(今 の鹿児島本線)と篠栗線との分岐点にあった

第3踏切は、山崎警手がそこに居住して踏切警手を勤め、その妻と18歳の

長男と16歳の長女が代人として登録されていた。しかし山崎警手は兵役に

招集され、不幸なことにその妻も病死してしまった。両親不在の中、21日忌

の法要が営まれ、その中に11歳の次女お栄も含まれていた。

丁度その時、18時35分の篠栗行の列車が通過する時刻になったので、

お栄は進んで踏切番に立った。第4踏切の方を見ると、前方の線路の中を

歩いている人が見える。お栄は「危ないよ! 汽車が来るよ!」と大声で叫ん

だが、その人はまったく気づく様子がない。たまりかねたお栄は赤旗を振り、

「汽車が来る!危ないからのいて!」と何度も叫びながら第4踏切に向かって

走った。

一方、機関手は赤旗が振られるのをみて

汽笛を鳴らし急ブレーキをかけた。

その人は難を避けたが、お栄は

よろめき機関車に触れてしまった。

駆けつけた家族に抱き上げられたが

意識はなく即死の状態であった。

このお栄の死は当時の新聞で報道され

多くの人々の涙を誘った。

当時の「福岡日日新聞」はお栄を激賞する

文章を掲載している。

 

「広瀬中佐を輩出し なかったことは決して福岡県民の恥辱ではない。

 東郷大将を輩出しなかったことは決して福岡県民の恨事ではない。

 しかし少女お栄を輩出したことは福岡県民永遠の誇りである」

●明治38年は、東郷平八郎大将率いる連合艦隊が日本海海戦でロシアの

 バルチック艦隊に対して完全勝利を収め、国民全体がその勝利に沸き

 立っていた年だった。

 当時の東郷大将は国民にとって「軍神」とまで崇められる存在だった。

 福岡日日新聞の執筆者はお栄の行動をその「軍神」以上だと評価している

 のである。そこに執筆者の強い感動が伺える。

−佐々木冨泰・網谷りょういち共著「続・事故の鉄道史」(日本経済

 評論社刊)より引用・要約−


第3話 碓氷峠の幽霊娘


●「民話」は決して「昔の話」と

 イコールではない。人々に語り

 継がれている話が民話であり、

 現代においても「民話」は

 ちゃんと生きている。

 これは民話の例ではないが、

 20年近く前に飯田線だった

 か東海道線だったかは忘れたが、

 通勤電車の中で女子高校生同志が「T信用金庫が危ない」と話しているのが、

 噂となってあっという間に街中に広まり、数日後、実際にT信用金庫では

 取り付け騒ぎが起こってしまったという有名な話がある。

 この場合は、結果的には根も葉もない「噂」だということがわかったのだが、

 これだけマスコミが発達した世の中でも、人々は最終的には「口コミ情報」を

 最もよく信じるということを如実に示した出来事だった。インターネットが

 これだけ爆発的に広まっているのも、パソコンメーカーの宣伝や、何となく

 トレンディという要素も多少はあっても、基本的に参加者ひとりひとりの

 「口コミ」の世界であるということが、人々に自然に受け入れられたからでは

 ないかと私は考える。

●幽霊話というのは狭義の意味での「民話」ではないが、口コミで広がり、

 根強く噂され続けるという点では民話とよく似ている。

 今野圓輔氏は、現代に生き続ける幽霊話を民話的視点から分析した本を

 多く書かれている。その著書「日本怪談集(幽霊篇)」教養文庫刊」の中には

 鉄道に関する幽霊話もいくつか掲載されているので、ここでひとつご紹介

 したい。

昭和21年、上野発の信越線が

高崎駅を出るのは午前2時半

過ぎで、ほとんど列車の客も起き

ている人はいない。

列車はあえぎあえぎ登り横川に

着く。

この駅で、アプト式電気機関車

にリレーされ、碓氷峠の坂道を

登るのだが、K車掌が幻の娘を

見たのは、その最後尾のがらんとした

車輌だった。

20歳くらいの和服のお嬢さんふうで、

K車掌のいる後方に背中を向けて坐っていた。

おや、どこから乗ったんだろうと、おかしく思った。横川まではたしかにいな

かったし、横川からだとすると、夜中の3時過ぎ、たったひとりで若い娘が

乗車したことになる。何か急用でもあって急いでいるのかな、とも思った。

K車掌も夜中のことでついうとうととして、もうすぐ軽井沢なので立ち上がって

ふと気がつくと先ほどまでいた娘が消えてなくなってしまった。背中を向けて

いたのでどんな顔をしていたのか、見えなかったという。S車掌も、やはり

着物を着た、たしかにその娘さんだというし話してみるとほかにも二、三の

車掌さんが、それと同じような経験をしたといい出した。ともかく軽井沢の

手前の最終トンネルの中で消えてしまうという。この話は尾鰭がついて、国鉄

職員の間でうわさがうわさを呼んで吹聴され、碓井峠の幽霊娘の話は高崎

管理局では誰ひとり知らぬものがないほどになった。

−今野圓輔著「日本怪談集(幽霊篇)」教養文庫刊より引用−

●K車掌はどういう角度から娘さんを見たのだろうか。旧型客車の背ずりは

 坐った人の後頭部くらいまでの高さがあって、娘さんが坐っていたとすると

 後ろからは髪飾りくらいしか見えない。又、当時の旧型客車の室内灯は暗い

 白熱球で、どうして20歳くらいとわかったのか不思議な気がする。

 和服女性の後ろ姿から年齢を推測するのはとても難しいものである。

●それはともかく、列車が走行中に乗客のひとりがふっといなくなるという

 怪談はよく耳にする。

 私も生駒トンネルの中で連結幌の所に立っていた男がトンネルを抜けると

 消えてしまうという話を聞かされたことがある。

 そして幽霊は大抵深夜の列車内に現れる。それはそうだろう、乗車率200%

 のラッシュアワーの山の手線内で突然乗客の一人が消えたとしても誰も気

 がつかないだろうから。

●乗客が消える話はタクシー

 のほうが豊富だ。非常に

 有名な話として青山墓地

 の前で娘さんを乗せ、横浜

 の自宅前に着いたところ

 「持ち合わせが 無いので

 ちょっと待って」とその家の

 中に消えたまま出て来ない。

 待ちくたびれてその家に

 尋ねると、その娘は数日前に亡くなって今日青山墓地 に納骨してきた

 ところだというのがある。

 前出の今野圓輔氏によると、この手の話は何と江戸時代の「駕籠かき」に

 まで溯るそうだ。交通機関の発達と共に幽霊の娘さんも人力車を経て電車

 やタクシーに乗るようになった。ただ娘さんが飛行機に乗って突然姿を

 消したという怪談は聞いたことがない。きっと飛行機はスチュワーデスさん

 による塔乗客のチェックが厳しいからだろう。


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